共産主義の支持と批判
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「ジャン・カスー」の記事における「共産主義の支持と批判」の解説
また、アラゴンの求めに応じて再び『ユーロープ』誌の編集長に就任し、レジスタンス活動家を中心に結成された全国作家委員会 (1946-1947)、全国知識人同盟 (1947-1949) の会長を歴任した。だが、これらの活動を主導し、レジスタンスで重要な役割を担った共産党との関係は複雑であった。元ソ連共産党員で米国に亡命したヴィクトル・クラフチェンコ(フランス語版)が1946年に『私は自由を選んだ』を著し、スターリン政権下で行われた強制的な農業国有化の実態やソ連の強制収容所の存在を暴露したとき、共産党は文芸誌『フランス文学(フランス語版)』誌、『リュマニテ』紙等でこれを米諜報部の捏造であると非難し、クラフチェンコに名誉棄損で訴えられた。1949年に100名以上の証人を集め、「世紀の裁判」と呼ばれたクラフチェンコ裁判で、カスーは『フランス文学』誌編集長のクロード・モルガンと『リュマニテ』紙編集委員のアンドレ・ヴュルムセルを擁護する証言をした(裁判ではクラフチェンコが勝訴した)。また、1948年にユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者で首相のヨシップ・ブロズ・チトーがコミンフォルムから追放され、チトー主義者狩りが始まると、翌49年にユーゴスラビアを訪問し、帰国後、チトー主義を擁護した。だが、同年、ハンガリー共産党のライク・ラースローが死刑判決を受け、処刑されたのを機にスターリニズムときっぱり決別し、『ユーロープ』誌編集長を辞任した。カスーはこの経緯について『エスプリ』誌に「革命と真実」と題する記事を発表し、共産主義を批判した。主幹エマニュエル・ムーニエはこの号の見出しを「民衆を裏切ってはならない」とした。これに対して共産党、特にアンドレ・ヴュルムセルは、カスーは「アメリカ側についた」と非難した。カスーはクロード・アヴリーヌ、ルイ・マルタン=ショフィエ(フランス語版)、ヴェルコールとともに『自由の声』を出版し、スターリニズムは「異端審問と禁書目録」の機構を有するかつての「カトリック教会」と同様であると批判した。1950年にはマルタン=ショフィエ、アンドレ・シャンソン(フランス語版)、ヴェルコール、ルネ・アルコスも『ユーロープ』誌を辞任し、カスーは全国知識人同盟を脱退した。 1950年代には政治から一定の距離を置き、展覧会の準備に奔走する一方、再燃する反ユダヤ主義や人種主義に反対し、「アルジェリア戦争の継続に反対する行動委員会」に参加し、アルジェリアでのフランス軍の拷問を糾弾した。1965年の大統領選挙ではフランソワ・ミッテランを支持した。また、ジョルジュ・ポンピドゥー大統領が対独協力で人道に対する罪に問われたポール・トゥヴィエに恩赦を与えたときには、これを厳しく非難した。
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