『ユーロープ』誌編集長
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「ジャン・ゲーノ」の記事における「『ユーロープ』誌編集長」の解説
1920年、文学のアグレガシオン(一級教員資格)を取得。ドゥエー(オー=ド=フランス地域圏ノール県)、次いでリールの高等学校(リセ)で教鞭を執り、リールの高校では文科受験準備級を創設した。1916年4月27日にモントリュー(オード県)生まれで歴史のアグレガシオンを取得したジャンヌ・モーレルと結婚。1922年2月23日に第一子ルイーズが生まれた。ジャンヌは英仏・伊仏翻訳家で、ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティ(サッコ・ヴァンゼッティ事件)の書簡の翻訳で知られるが、この翻訳書刊行の翌年、53歳で病死した。 ゲーノは、「精神の貴族階級の擁護と機会均等の原則を両立させること」を彼自身の教育理念とし、1927年から名門リセのラカナル校(パリ南郊)、アンリ四世校およびルイ=ル=グラン校(いずれもパリ5区)で教鞭を執った。教職の傍ら、著作活動に取りかかり、『パリ評論』、『グラン・ルヴュー(大評論)』、『新フランス評論 (NRF)』に寄稿し、1929年から36年まで、作家のロマン・ロランによって1923年に創刊された文芸誌『ユーロープ(欧州)』の編集長を務めた。『ユーロープ』誌は、ロマン・ロランの「精神の独立」の理念に基づく平和主義の雑誌であり、1920年代には第一次大戦後の欧州の再建に関する議論の場であった。また、アクション・フランセーズなどの右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動し、国会前で共和制打倒の暴動を起こした事件(1934年2月6日の危機)を受けて、反ファシズム知識人監視委員会が結成されたとき、この最初の議論の場となったのもゲーノが編集長を務める『ユーロープ』誌であった。だが、こうした経緯から、同誌はやがて共産党に「乗っ取られる」ことになり、ゲーノは編集長を辞任した。彼もまた反ファシズム知識人監視委員会の会員であったが、彼は(共産主義そのものではなく)当時の共産党の政策に対して批判的であり、とりわけ、ソ連の共産主義に対しては当初から公に立場を表明しないことで意見の一致を見ていた同委員会の指導者のなかで、1936年8月に始まったモスクワ裁判(スターリンの大粛清)に対して最初に記事を書いたのがゲーノであった。だが、それ以上に、彼はロマン・ロランと同様に、いかなる政党に対しても「精神の独立」を断固として守っていた。これは、ロマン・ロランの『ユーロープ』誌創刊の意図においても同様であり、彼は創刊前年のアインシュタイン宛ての手紙で、同誌を「超党派の、むしろ政治とは無関係の」文学・科学・芸術・哲学思想を表現する場として「自由な思想、真に国際的な思想の雑誌」と定義し、アインシュタインに寄稿を要請している。そしてゲーノが辞任するまでは、『ユーロープ』誌はまさにこのような様々な分野の自由な思想の表現の場であった。なお、『ユーロープ』誌に掲載されたゲーノの主な記事は、妻アニー・ゲーノ(フランス語版)が編纂し、1979年に『過去と未来の間で』と題して刊行された。序文は歴史学者のパスカル・オリー(フランス語版)が書いている。 1935年11月8日金曜日、作家のアンドレ・シャンソン、アンドレ・ヴィオリス(フランス語版) とともに左派知識人および労働者の週刊新聞『ヴァンドルディ (金曜日)』を創刊した。この新聞はロマン・ロランの「抵抗の精神」を受け継ぐ新聞として人民戦線の機関紙であり、したがって、1938年に人民戦線の崩壊とともに廃刊となった。人民戦線はロマン・ロランの生誕70年にあたる1936年1月に結成されたが、彼は1月24日付の『ヴァンドルディ』紙に人民戦線を支持する「不可分の平和のために」と題する記事を発表している。編集長はジャーナリストのルイ=マルタン・ショフィエ(フランス語版)、主な寄稿者は、創刊者、ロマン・ロランのほか、アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)、ルイ・アラゴン、アンドレ・ジッド、ジャン・カスー、エマニュエル・ボーヴ、ウジェーヌ・ダビ(フランス語版)、ルイ・ギユー(フランス語版)、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、シャルル=フェルディナン・ラミュ、ジュリアン・バンダ、ジャック・マリタン、ジャン・ジオノ、アンドレ・ヴュルムセル(フランス語版)、イレーヌ・ジョリオ=キュリー、フレデリック・ジョリオ=キュリーらである。
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