幼年期から青年期にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 02:19 UTC 版)
「カン・ケク・イウ」の記事における「幼年期から青年期にかけて」の解説
ドッチの来歴に関しては様々な研究があるが、資料によって異同がある。例えば、生年月日や生まれた場所は必ずしも一致した情報が与えられているわけではない。生年月日については、D.チャンドラーの書物では、1942年頃と書かれているのに対し、B.キアナンの本では、1942年と書かれている。ドッチ本人へのインタビューに基づいた記事では、本人が1942年11月17日生まれだと述べている。カンボジア特別法廷のドッチに対する第1審判決文でも1942年11月17日生まれと書かれている。貧しい中国系カンボジア人の一家にチョヤオ(Choyaot、コンポン・トム州(Kampong Thom)、スタウン(Staung)、コンポン・チェン(Kompong Chen)地区)で生まれた。両親は村から外へ出たことはなかった。一方で、生まれた場所に関しては、カンボジア特別法廷のドッチ裁判第1審判決文ではコンポン・トム(Kampong Thom)州スタウン(Stoeung)地区ペアム・バン(Peam Bang)郡Poev Veuy村と認定されている。 資料による生年月日・生地の相違資料D.チャンドラーB.キアナンN.ダンロップカンボジア特別法廷判決文ドッチ本人へのインタビュー記事 生年月日1942年頃 1942年 1942年11月17日 1942年11月17日 1942年11月17日 生地記述なし コンポン・トム(Kampong Thom)州 スタウン(Staung) コンポン・チェン(Kompong Chen)地区 チョヤオ(Choyaot)で生まれた。 スタウン(Stoung)近郊のチャイヨット(Chaiyot)村。ドッチの生家はスタウン川のほとりにあった小さな小屋だった。 コンポン・トム(Kampong Thom)州 スタウン(Stoeung)地区 ペアム・バン(Peam Bang)郡 Poev Veuy村 記述なし ドッチの父の名はカイン・キ(Kaing Ky)といい華人、母親カイン・シウ(Kaing Siew)は中国人との混血である。ドッチは、5人いた子供のうちの最年長で、唯一の男子であった。ドッチが9歳のとき、土地をめぐる問題に巻き込まれて、一家は祖母が残してくれた別の土地へ移住することになった。2002年現在こちらの家は残っている。父親は中国人が経営する地方の魚会社で事務員として働き始めたが季節雇用者として雇われたので、母も市場でオレンジケーキや揚げたバナナを売って家計の足しにしなければならなかった。子供の頃からドッチは勉強のよくできる子として知られていた。母親へのインタビューによると、子供の頃のドッチは「いつも本のことばかり」考えていたという。ドッチは、家から歩いて10分ほどのところにあった、隣村のポ・アンデット(Po Andeth)学校へ通った後、その隣にあったコンポン・チェン小学校へ入った。ドッチの先生はケ・キム・フオ(Ke Kim Hour、暗号名はソトSot、後にクメール・ルージュに入り、プルサト地方の一地区の責任者として働いていたが、S-21へ送られて処刑された。)という名で、貧しい子供にはお金を与えて勉強を続けられるように援助するなど熱心な先生で人気もあった。(文献によっては、ドッチの初期の教育は、アメリカ政府がドッチの住む村に送った教師達によるものだったとも書かれている。)1961年、ドッチは試験に合格し、前期中等教育修了証書(Brevet d'Etudes Secondaire de Premi`ere Cycle)を手にした。その後、シエムリアップにあるLycée Suryavarman IIへ入り、ここで最初のバカロレアに合格した。普通の生徒が2年かかる所を1度の試験で合格したことは非常にまれなケースであるという。同年、プノンペンの最高学府リセ・シソワット(英語版)への入学許可が与えられ、そこで数学を専攻することになった。1962年にリセ・シソワットへ入学し、ここで2回目のバカロレアに全国第2位の成績で合格した。(一方で、D.チャンドラーの著書ではバカロレアに全国2位で合格したのは1959年となっていて、文献とは矛盾した記述が見られる。) 資料による相違D.チャンドラーN.ダンロップバカロレア1959年にバカロレアに合格 1961年に1回目のバカロレアに合格。2回目のバカロレアで全国第2位の成績で合格。 バカロレアの成績全国第2位 全国第2位 リセ・シソワットへ通うために必要だった資金は、文献には、ドッチの地元の篤志家の援助によるものと書かれているが、これは、ドッチの小学校時代の恩師ケ・キム・フオと同一人物だと思われる。フオはこの頃には、プノンペン南にあったリセの教師をしていた。リセ・シソワット在学中に友人ホー・ギー(Ho Ngie)の妹キム(Kim)と恋愛関係になり婚約したが、何らかの理由で婚約は破棄された。 1964年、数学教師になるためリセ・シソワットのすぐ近くにある教育研究所で学び始めた。この研究所の前所長が、数学を教えていたソン・センで、当時ここは、共産主義者を生み出すセンターの1つになっていた。(一方で、D.チャンドラーの著書では1964年にプノンペン大学に付属する教育研究所の数学教授になったと書かれている。ソン・センは、反政府的であったため1962年に所長の座を追われたが、研究所で教えることは許されていた。なお、ソン・センは1964年、政府の弾圧から逃れるために前年の1963年にプノンペンから姿を消したポル・ポト、イエン・サリに続き、ベトナム国境近くの秘密基地第100局(Office 100)へ移動し地下活動に入った。ソン・センがプノンペンから姿を消したのは、ポル・ポトがプノンペンを去った1日後であると書く書物もある。)ここでドッチは、この研究所の教授でプノンペンの共産主義細胞のトップだったチャイ・キム・フオ(Chay Kim Huot。後にドッチが、S-21の所長に推薦することになる人物。1978年にS-21で処刑された。)の紹介でカンボジア共産党員になった。(文献によれば、1964年10月のことである。) 同級生の証言によると、学生時代のドッチは無趣味で政治にも関心を抱いていなかったが、研究所に入ってから共産主義に引きつけられていった。これは、クメール語を学ぶためプノンペン大学に交換留学生として送られていた中国人の学生グループから影響を受けたためであるという。ドッチは、1965年8月28日に教員免許を取得。その後、スコウンのリセに赴任した。 資料による相違D.チャンドラーN.ダンロップドッチへのインタビュー記事リセ・シソワット卒業後その後の数年は、コンポン・トムのリセで数学を教えていた。 教員免許取得のため教育研究所へ入学。 記述なし 教育研究所でのポスト数学教授 数学教師の教員免許をとるために入学 数学教授 日付1964年数学教授になった。その後研究所を辞めて、コンポン・チャムのチューン・プレ・リセ(Chhoeung Prey lycée)で短い期間教えた。 1965年8月28日に教員免許を取得。その後、スコウンのリセに赴任した。 1964年8月28日に数学教授になった。 当時の生徒の1人によれば、ドッチの授業はとても正確なものだったという。この時の同僚の1人が、生物学を教えていたマム・ネイ(Mam Nay、あるいはMam Ney)である。両者は後にカンボジア共産党員になり、さらにS-21で要職につくことになる。 なお、小学校の数学教師になったとは書かず、バライン大学(Balaing College)の副学長になったと書く文献もある。当時の学長は、後にS-21の尋問部長になるマム・ネイである。 (マム・ネイは暗号名をチャンといい、S-21ではドッチの部下として尋問部長を務めた。とても背が高く、やせており、肌の色が白いことが見た目の特徴である。1950年代に生物学を教えていたことを除くと、マム・ネイの青年時代についてはほとんどわかっていない。ベトナム語が流暢だったことから、おそらく、ベトナムで生まれ、そこで育ったのだろうと考えられている。1990年にもクメール・ルージュの尋問官であったことがわかっている。1994年の時点ではソン・センの部下であり、その命令で、反抗的な農民の「再教育」用の監獄を作っている。1996年に国連職員がチャンを見かけたときには半分リタイアした状態で、市場で売るための野菜を栽培していたという。)。 カンボジア特別法廷1審での判決文では、1965年コンポン・チャムのスコウン(Skoun)にある小学校の数学教師になった、と認定されている。
※この「幼年期から青年期にかけて」の解説は、「カン・ケク・イウ」の解説の一部です。
「幼年期から青年期にかけて」を含む「カン・ケク・イウ」の記事については、「カン・ケク・イウ」の概要を参照ください。
- 幼年期から青年期にかけてのページへのリンク