幼年期から藩政前期とは? わかりやすく解説

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幼年期から藩政前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 03:48 UTC 版)

徳川斉脩」の記事における「幼年期から藩政前期」の解説

第7代藩主徳川治紀長男として江戸小石川藩邸生まれる。母は松永直良の娘・五百(浄生院)。幼名栄之允、のち鶴千代諡号哀公、字は子誠、号は鼎山、天然子、信天翁瓢亭など。 若年の頃は聡明知られ義公2代藩主光圀)の再来期待かけられた。文才芸能優れ古道具収集趣味持ち、特にその書は秀でたもので、斉脩の性格映してか、書体繊細優美とされる。しかし、生来体が丈夫ではなく柔弱な性格であったため、藩政譜代重臣任せ保守門閥派による金権政治横行したまた、13年間の治世一度水戸領に入ることがなく、領内士民接す機会のなかった藩主であった享和3年1803年)、7歳の時、将軍徳川家斉の七女峰姫(当時4歳)と婚約し文化11年1814年)に結婚した文化13年1816年)、父・治紀の死去を受け、家督継いだ時に20歳であった。 翌文化14年1817年)、藤田幽谷は斉脩に上書出し門閥派の巨頭目していた付家老中山信敬引退主張した中山家紀州尾張付家老とも連携して大名同等扱いになるほどに権力拡大していた。信敬は病もあって文政2年1819年)に退任し幾分力を削がれはしたものの、藩政門閥主導であるは変わらなかった。 水戸藩慢性化した苦しい藩財政は、斉脩の治世においても大きな問題であったが、斉脩の代での財政施策は、前代の治紀とは大きく雰囲気異なった一つ幕府からの援助である。斉脩の御簾中将軍の娘であることから、幕府との関係円滑に運んだ文政2年1819年暮れに、それまで幕府からの拝借金9万2千両返済免除認められた。文政4年1821年)には、さらに10万両の拝借金全て返済不要となり、借金皆無になったばかりでなく、10年にわたり毎年9千5百両ずつ助成金を受けることになった。これには斉脩も満悦であったという。また文政7年1824年)には9千5百両助成金が、さらに翌年から1万両の永続金として贈られることとなった幕府からの援助引き出した功により、門閥派の家老榊原照昌らが加増受けている。 また一つは、前代の治紀には廃止していた献金郷士制の復活である。文政年間25名の献金郷士採用され、すでに献金郷士となった者でさらに献金をし、格式禄高進められた者もあった。その中で有名な人物大久保今助である。水戸領の農民出身ながら、江戸出て富豪となり、多額献金によって勘定奉行上座500取りにまでなった。

※この「幼年期から藩政前期」の解説は、「徳川斉脩」の解説の一部です。
「幼年期から藩政前期」を含む「徳川斉脩」の記事については、「徳川斉脩」の概要を参照ください。

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