幼年期から渡仏、開店までとは? わかりやすく解説

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幼年期から渡仏、開店まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:52 UTC 版)

林忠正」の記事における「幼年期から渡仏、開店まで」の解説

1853年嘉永6年)、百万石前田藩領の越中国高岡(現・富山県高岡市)の蘭方外科医長崎言定次男として生まれた幼名、志芸二(しげじ)。祖父長崎浩斎著名な蘭学者であり、幼い頃から日本国外への憧れ育てられた。1870年明治3年)、明治維新機に富山藩大参事就任した従兄富山藩士・林太仲の養嗣子となり、「林忠正」を名乗る。翌1871年明治4年)、富山藩貢進生各藩俊秀を藩費で大学南校学ばせる制度)として上京し大学南校入学大学南校1873年明治6年)に改編されて「開成学校」となり、1877年明治10年)には「東京大学」と改称した授業お雇い外国人教師により、すべて外国語行われた1878年明治11年)、パリ行われる万国博覧会参加する起立工商会社」の通訳として渡仏した。すでに1875年明治8年)、従兄磯部四郎パリ大学留学していたこともあり、大学中退して憧れフランス渡った当時パリでは日本美術への人気高く博覧会でも日本工芸品飛ぶよう売れたトロカデロ宮殿フランス語版)(現・シャイヨ宮内の歴史館」では各国参考品が展示され、特に日本興味を持つ印象派の画家評論家などは連日日本展示物見物来ていた。はそこに立って流暢なフランス語詳しく説明した。その熱のこもった解説通じて彼らとの親密交友始まり、その友情の死の日までも続いた博覧会の後もパリ残ったは、1881年明治14年)頃から美術仕事戻り元起工商会社副社長若井兼三郎とともに美術雑誌主筆ルイ・ゴンス(フランス語版)の『日本美術』(全2巻1883年明治16年)に刊行1885年明治18年)に改訂)の著述手伝うことになったはこの大きな仕事によって、日本美術体系的に学び、また日本工芸第一人者若井から鑑定知識資料譲り受けたゴンス著書冒頭能力高く評価し協力への感謝記している。1884年明治17年1月、「日本美術情報案内」と銘打った美術店を開く。日本文化豊富な知識人柄に魅せられた日本美術愛好家たちは、その小さな店に足繁く通った同年7月には、若井合同して「若井商会」を作った若井日本厳選した工芸品パリ送りヨーロッパ各地行動的に販売するによって商売順調に伸び1886年明治19年)には大きなアパルトマン移った同年若井から完全に独立、「商会」を開いた。だが同じ頃、日本商社パリ支店次々に店を閉じた。その理由は、彼らが「ヨーロッパの客が日本美術何を求めているか」を知らなかったからである。パリ店舗1891年明治24年)には門を閉め大金持ちの客のみを相手にするようになっていた。

※この「幼年期から渡仏、開店まで」の解説は、「林忠正」の解説の一部です。
「幼年期から渡仏、開店まで」を含む「林忠正」の記事については、「林忠正」の概要を参照ください。

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