幼年期〜大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:40 UTC 版)
大阪市生まれ、父は産婦人科医。帝塚山学院小学校時代は、大阪球場を本拠としていた南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークスの前身)が運営する「南海ホークス子供の会」に入会して野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった(「ホークス子供の会」では一学年下に岡田彰布も所属していた)。[要出典] 中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして自分には向いていないと考え、当時1968年メキシコシティーオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。中学時代には「ドイツに行ってプロになる」と言って両親を困らせ、両親から相談を持ちかけられた産経新聞運動部長賀川浩に諭されて思いとどまる。 大阪府立天王寺高等学校入学後もサッカーを続ける。同校は進学校でありサッカーではまったく実績がない高校だったが、岡田は3年時にユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。天王寺高では監督は試合の時しかいなかったため、日々の練習メニューは主将である岡田が考え実践していた。 一年間の浪人生活を経て、早稲田大学政治経済学部に入学。サッカー部(ア式蹴球部)の部長である堀江忠男からは「おそらく一年間浪人して勉強したとしても、合格するのは無理だろう。私が推薦するから、体育専攻を受験するようにしなさい」という手紙を受け取ったが、それがかえって自身のやる気に火をつけたと振り返る。浪人生活のあいだに10キロ以上太り、大学では当初、サッカー部には所属せずサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたが、それを知った日本サッカー協会の関係者たちに説得され、6月になってからサッカー部に入部する。 早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた。 大学時代に知り合った2歳年上の八重子夫人と大学4年の時に結婚。2男1女の父。
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