幼年時代、思春期、および教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
「プリマス植民地」の記事における「幼年時代、思春期、および教育」の解説
子供達はだいたい8歳くらいまで、母親の直接庇護のもとに置かれ、その後に他の家族の里子に出されることが希ではなかった。このようなやり方で子供を外に出すことには多くの理由があった。里子に出されてから商売のやり方を学んだり、読み書きを教えられる子供がいた。植民地で決定されるほとんどすべての事項と同様に、子供を里子に出すことには宗教的な理由があったと思われる。子供の実の親は子供に対する愛情が深く、適度に鍛えることが出来ないと考えられた節がある。他の家庭環境に子供を置くことで、子供が甘やかされてダメにされる危険性が減った。 思春期はプリマス植民地で認識される人生の一段階ではなかった。また青年から成人になったことを祝う習慣も無かった。重要な転換期は様々な年齢で起こったが、どれも「成年に達すること」としての行事は無かった。子供達は8歳になると、家業の手伝いをしたり、あるいは里親の元で仕事の仕方を学んで、大人達の人生の役割を学び始めることが期待された。ほとんどの子供達は8歳頃に宗教的目覚めを経験し、教会員となった。 孤児となった子供達は14歳でその保護者を選ぶ権利があった。16歳で男は軍隊に入る適格者となり、犯罪に対する裁判のような法的に責任有る大人とも考えられた。21歳という年齢は男が独り立ちする最低線とされたが、実際には20代半ばになることが多かった。21歳は相続を開始できる年齢とも見なされたが、法律では故人の権利を尊重しその遺志でもっと早い年齢でも可能にしていた。 プリマス植民地では実際の学校は希だった。最初の実際の学校が作られたのは植民地設立後40年が経っていた。植民地議会が正式の公的学校を作ることを承認したのは1673年であり、当時の予算で作られたのはプリマスの町だけだった。1683年までに他に5つの町でこの予算が付いた。 若者の教育は、学校が通常のことになった後でさえも、学校の主要な領分と考えられることは無かった。教育の大半は両親と里親の役割だった。プリマスでは年季奉公が通常のことではなかったが、里親が自分達のやっていることを全て子供達に教えることが期待された。教会も子供の教育で中心的な役割を果たした。子供達に文字を教える主要な目的は聖書を自分で読めるようにすることだった。
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