幼年学校、士官学校と陸軍大学校
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「辻政信」の記事における「幼年学校、士官学校と陸軍大学校」の解説
石川県江沼郡東谷奥村今立(現在の加賀市山中温泉)で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中高等小学校から苦学の末、1918年(大正7年)、名古屋陸軍地方幼年学校に入学し、首席で卒業した。陸軍中央幼年学校では西竹一らが同期にあたる。陸幼を経て陸軍士官学校 (陸士)(36期) に入学し、予科二年間を終了後には士官候補生として金沢を衛戍地とする歩兵第7連隊(辻の原隊となる)に6カ月配属され、その後本科へと進み1924年(大正13年)7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝受している。見習士官として歩兵第7連隊に戻り、3カ月後に歩兵少尉に任官した。1927年(昭和2年)10月に中尉に進級し、1928年(昭和3年)に陸軍大学校(43期)に入学、1931年(昭和6年)11月に卒業した。陸大卒業席次は3位(首席は天野正一、次席は島村矩康)であり、恩賜の軍刀を拝受した。陸大での同期には秩父宮雍仁親王がいる。 辻が歩兵第7連隊に戻ってからしばらくして、中華民国の上海において第一次上海事変が発生した。歩兵第7連隊を隷下に置く第9師団も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に上海停戦協定が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でも辻の名が報じられている。同年9月には参謀本部付となり、編成班で勤務した。
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