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天野正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 03:25 UTC 版)

天野 正一(あまの まさかず、1898年明治31年)5月10日[1][2] - 1979年昭和54年)10月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。最後の参謀本部作戦課長(第1部第2課長)[2][3]

経歴

愛知県出身[1][2][4]名古屋陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][2][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる[1][5]。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を首席で卒業し歩兵第19連隊中隊長に就任[2][4][6]

1932年(昭和7年)12月、教育総監部付となる[1]。1935年(昭和10年)3月から1938年(昭和13年)4月までドイツポーランドに駐在した[1]

1938年7月、第2軍参謀(作戦主任)に発令され日中戦争に出征[1][2]第11軍参謀、陸大教官を務め、1940年(昭和15年)8月、歩兵大佐に昇進[1][4]。1941年(昭和16年)3月、参謀本部欧米課長(第2部第6課長)に就任[4][7]。以後、大本営第2部第16課長、支那派遣軍参謀(作戦課長)を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進し第6方面軍参謀副長に就任[1][2][4]。1945年(昭和20年)2月、参謀本部作戦課長に転じ終戦を迎えた[1][2][4]。 同年8月18日、アメリカ政府からマニラに代表者を派遣するように要求があり、全権委員となった河辺虎四郎が全権委員に就任。天野も随行の一人に選ばれてマニラに渡った[8]。 同年12月に予備役に編入され、1946年(昭和21年)12月まで復員事務官を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、8-9頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』35頁。
  3. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、322頁。
  4. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』438頁。
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』437-438頁。
  6. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、8、584頁。
  7. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、8、324頁。
  8. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、782頁。ISBN 978-4-487-74409-1 
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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