天野桃隣
天野桃隣
本名・天野勘兵衛。通称藤太夫。芭蕉の縁者だが関係は不明。『炭俵』で活躍した。許六を芭蕉に紹介したのは桃隣。彼は、芭蕉没後元禄9年になって師の『奥の細道』の後をたどり、『陸奥衛』を著した。「寒からぬ露や牡丹の花の蜜」は、桃隣の新居祝いに芭蕉が贈った句。
桃隣の代表作
うぐひすの聲に起行雀かな(『炭俵』)
昼舟に乗るやふしみの桃の花(『炭俵』)
五日迄水すみかねるあやめかな(『炭俵』)
五月雨の色やよど川大和川(『炭俵』)
宮城野の萩や夏より秋の花(『炭俵』)
紺菊も色に呼出す九日かな(『炭俵』)
市中や木の葉も落ずふじ颪(『炭俵』)
木枯の根にすがり付檜皮かな(『炭俵』)
白桃やしづくも落ず水の色(『續猿蓑』)
菊の気味ふかき境や藪の中(『續猿蓑』)
天野桃隣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 13:34 UTC 版)
天野 桃隣(あまの とうりん、1639年(寛永16年)- 1720年[注 1]1月18日(享保4年12月9日))は、江戸時代前期から中期に活躍した俳人。名は勘兵衛、通称は藤太夫[注 2]。別号に初代太白堂、桃翁など[1]。
来歴
伊賀の上野生まれ。芭蕉直門で芭蕉の血縁者(『本朝文鑑』)とされる俳人である[2]。各務支考が唱えた説では松尾芭蕉の従兄弟や甥と伝えられる[1]。後に芭蕉の門人となり大坂に移り、俳諧を学んで詠歌に携わった。杉山杉風とともにかるみの句を求めた[2]。
江戸に入り、40歳のころに芭蕉への恩恵により、俳諧師としての独立が認められた[1]。1694年(元禄7年)に芭蕉が死去した後、彼が著した『奥の細道』の足跡を巡り、1697年(元禄10年)の忌日に『陸奥鵆』全5巻を刊行した[2]。しかし、その後は容貌が素朴となる等、不遇の晩年を過ごした[1]。なお、桃隣は戯作者であった桃林堂蝶麿と同一人物説とされている[1]。墓所は渋谷区瑞円寺。
主な著作物
- 『陸奥鵆』
- 『粟津原』
※両者とも芭蕉の忌日に刊行されている。
- 『発句合』 - 桃隣が残した唯一の句合評である[2]。
脚注
注釈
出典
外部リンク
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