幼年期と「詩を書く少年」の時代
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「三島由紀夫」の記事における「幼年期と「詩を書く少年」の時代」の解説
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった。 公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。 1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。 しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。 初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 — 三谷信「級友 三島由紀夫」 公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。 初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。 初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。 初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 — 三谷信「級友 三島由紀夫」 この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。 1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(それで万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。 公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。 7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。 「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。 — 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」 1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。 1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ヨーロッパではナチス・ドイツのポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶(まが)ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌を発表。前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城(せいじょう)」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。 同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。 この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。
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