幼年期と「詩を書く少年」の時代とは? わかりやすく解説

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幼年期と「詩を書く少年」の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「幼年期と「詩を書く少年」の時代」の解説

公威と祖母夏子とは、学習院中等科入学するまで同居し、公威の幼少期夏子絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階赤ん坊育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室育て始め母親倭文重が授乳する際も懐中時計時間計った夏子坐骨神経痛痛み臥せっていることが多く家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法厳しかった。 公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであった没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具御法度となり、外での男の子らしい遊び禁じられた。夏子は孫の遊び相手おとなしい年上の女の子選び、公威に女言葉使わせた。1930年昭和5年1月5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子食事やおやつを厳しく制限し貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方歌舞伎谷崎潤一郎泉鏡花などの夏子好みは、後年の公威の小説家および劇作家として素養培った1931年昭和6年4月、公威は学習院初等科入学した。公威を学習院入学させたのは、大名華族意識のある夏子意向強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心学校であった学習院入学するには紹介者が必要となり、夏子伯父松平頼安上野東照宮社司三島小説神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。 しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典院長をしていた学習院気風質実剛健基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へ移行していく中、校内硬派優勢占めていた。級友だった三谷信学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。 初等科入って間もない頃、つまり新しく友人になった同士互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分産まれ時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた春陽をあびて駆け抜け小柄な彼の後ろ姿覚えている。 — 三谷信級友 三島由紀夫」 公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた読書親しみ世界童話集印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話北原白秋フランス近代詩丸山薫草野心平の詩、講談社少年倶楽部』(山中峯太郎南洋一郎高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した自家中毒風邪学校休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢悪くなり教師によく叱られていた。 初等科3年の時は、作文ふくろふ」の〈フウロフ、貴女森の女王です〉という内容対し国語担当鈴木弘一先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績中程度であった主治医方針日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く当時綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった初等科6年時には校内悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸やっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷目撃している。 初等科六年の時のことである。元気一杯悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸やっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島サッとズボンの前ボタンをあけて一物取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺制服ズボンバックにした一物は、その頃彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 — 三谷信級友 三島由紀夫」 この6年生時の1936年昭和11年)には、2月26日二・二六事件があった。急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてならない先生から訓示受けて帰宅した6月には、〈非常な威厳尊さひらめいて居る〉と日の丸表現した作文わが国旗」を書いた1937年昭和12年)、学習院中等科進んだ4月両親転居に伴い祖父母のもとを離れ渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家両親と妹・弟と暮らすようになった夏子は、1週間1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真抱きしめて泣いた虚弱な公威は中等科でも同級生からかわれ屋上から鞄を落とされたり(それで万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油ドバドバかけられ野菜サラダ食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。 公威は文芸部入り同年7月学習院校内誌『輔仁会雑誌159号に作文春草抄――初等科時代思ひ出」を発表自作散文初め活字となった中等科から国語担当になった岩田九郎俳句会「木犀会」主宰俳人)に作文短歌才能認められ成績上がった以後、『輔仁会雑誌』には、中等科高等科の約7年間(中等科5年間、高等科3年9月卒業)で多く詩歌散文作品戯曲発表することとなる。1112歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎ラディゲなども読み始めた7月盧溝橋事件発生し日中戦争となったこの年の秋、8歳年上高等科3年文芸部員・坊城俊民出会い文学交遊結んだ初対面時の公威の印象坊城は、「人波かきわけて華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く皮膚まっ白だった。目深学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時光景を以下のように語っている。 「文芸部坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度輔仁会雑誌にのせるように、委員言っておいた」 私は学習院使われている二人称貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部雑誌雪線”だ。おれの小説出ているから読んでくれ。きみの詩の批評はさんである」 三島全身はじらい示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島一瞬躊躇し思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらい中に、私は少年のやさしい魂を垣間見た思った。 — 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫1938年昭和13年1月頃、初めての短編小説「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}酸模すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」を書き同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃学校の剣道の早朝寒稽古率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁うまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科上がり徐々に身体丈夫になっていった同年10月祖母夏子に連れられて初め歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し初めての能(天岩戸神遊び題材にした『三輪』)も母方祖母トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇夢中になり、その後17歳から観劇記録平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。 1939年昭和14年1月18日祖母夏子潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去没年62歳)。同年4月前年から学習院転任していた清水文雄国語担当となり、国文法作文教師加わった和泉式部研究家でもある清水三島生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月ヨーロッパでナチス・ドイツポーランド侵攻受けてフランスイギリスドイツ宣戦布告し第二次世界大戦始まった1940年昭和15年1月に、後年作風彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶(まが)ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ下落合に住む詩人川路柳虹訪問し以後何度師事受けた倭文重の父・橋健三川路柳虹友人でもあった。同年2月山路閑古主宰月刊俳句雑誌山梔くちなし)』に俳句詩歌発表前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城(せいじょう)」の俳号名乗り1年半ほどさかんに俳句詩歌を『山梔』に投稿する同年6月文芸部委員選出され委員長坊城俊民)、11月に、堀辰雄文体影響受けた短編彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩東文彦から初め手紙もらったのを機に文通始まり同じく先輩徳川義恭とも交友持ち始める。東は結核患い大森区(現・大田区田園調布3-20自宅療養しながら室生犀星堀辰雄指導受けて創作活動をしていた。一方坊城俊民との交友徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。 この少年時代は、ラディゲワイルド谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトーリルケトーマス・マンラフカディオ・ハーン小泉八雲)、エドガー・アラン・ポーリラダン、モオラン、ボードレールメリメジョイスプルーストカロッサニーチェ泉鏡花芥川龍之介志賀直哉中原中也田中冬二立原道造宮沢賢治稲垣足穂室生犀星佐藤春夫堀辰雄伊東静雄保田與重郎梶井基次郎川端康成郡虎彦森鷗外戯曲浄瑠璃『万葉集』『古事記』枕草子『源氏物語』和泉式部日記』なども愛読するようになった

※この「幼年期と「詩を書く少年」の時代」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「幼年期と「詩を書く少年」の時代」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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