平岡家とは? わかりやすく解説

平岡家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「平岡家」の解説

祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区 三島は、〈私は血すぢでは百姓サムラヒ末裔だが、仕事仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが、その祖父平岡定太郎本籍は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・加古川市志方町上富木)で、その昔まだ呼ばれていた頃は、農業漁業盛んな地域であったまた、同じ兵庫県赤穂次いで塩田も盛んで、播磨の塩は「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた。 近くには景行天皇皇后播磨稲日大郎姫御陵があり、その皇子日本武尊誕生の地でもある。古代、この地は港で、三韓征伐の折に神功皇后龍船泊めたその時神功皇后が、野鹿の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼びその後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である。 1573年 - 1591年頃(天正の頃)に、左京亮がこの地に観音城(別名、志方城)を築城したため港町から城下町となった豊臣秀吉中国征伐にあたり城主櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城したため多く武士学者志方土着化した。 なお、この地は地盤強く震災被害少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都で候補地の一つ挙がったこともある。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかった。 「平岡」姓 平岡家の菩提寺真福寺1652年承応元年)の建立である。過去帳によれば、平岡家の祖となる初代1688年 - 1703年元禄時代)の孫左衛門である。二代目も孫左衛門襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次の六代目平岡太左衛門(たざえもん)の四男が平岡太吉となり、三島祖父・定太郎太吉二男である。 “平岡姓について安藤武は、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士出身地名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池身投げをした猿沢采女平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが、過去帳見た福島鑄郎によると、平岡姓は、四代目以降五代目利兵衛(3人目)からだとしている。 屋号「しおや」塩屋五代目利兵衛(3人目)のところから「しおや」(塩屋)という屋号付いているが、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目利兵衛が農業かたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売始めたではないかとされている。 野坂昭如は、「しおや」(塩屋)の屋号があって不思議はないとし、「“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋苫屋(とまや)の謂い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧し塩屋までもの意味」だと説明している。 曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」 七代目にあたる平岡太吉は、妻・つるとの間に、萬次郎、定太郎久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた三島の父・従弟小野繁(むめの息子)が真福寺住職から聞き出してまとめた報告書には太吉人物像次のように記されている。「平岡太吉裕福な地主農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立帯び短冊持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名明石橋本関雪岳父漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」。 太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎二男平岡義一の妻)によれば太吉幼少5、6歳)の頃、領主から禁じられていた一説には雉子)を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由平岡一家西神吉村宮前から志方村の上富木移り住んだという。その後成長した太吉金貸し業で成功し果実栽培軌道に乗って裕福となり、豪邸建てた赤門事件 平岡梓は、「僕の家は、家系図開けば、なるほど父方百姓風情赤門事件という反体制的のことをやらかしてお上痛い目に会うし…」と述べているが、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという。 志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、加賀前田家徳川将軍家から姫君迎えにあたって上屋敷正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て菩提寺真福寺赤門寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきものおこない」と断じられ「所払いになったという昔からのいい伝えの話だという。 から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺赤門寄進記録がないため真偽不明だとした上でその伝説を幼い頃から父親祖父から聞かされであろう三島脳裏には、「赤門事件起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識刻まれていた可能性があるとしている。福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島受け継がれていたとしている。 平岡家部落民説 『月刊噂』の記事1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元産経新聞四国支社男性記者)は、平岡家の祖先が、部落民あるかのような記載をしているが、越次倶子実際に過去帳調べて写真撮影したものによればそういった記述は全く無く1964年昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家の壬申戸籍写しにも、特別変った箇所はなかった。村松剛は、もし過去帳戸籍部落民説を裏付ける記述があれば、差別意識強かったその時代、由緒ある永井夏子と定太郎結婚成立しなかったであろうとしている。 近年過去帳実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「刑場役人下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている。板坂剛取材答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている。 平岡家系図 初代左衛門 2代目左衛門 初代利兵2代目利兵3代目利兵太左衛門 太吉 萬次郎 こと 公威(三島由紀夫紀子 寺岡つる 桜井ひさ 萬壽彦 定太郎 杉瑤子一郎 美津子 永井なつ 千之 義夫 久太郎 義一 むめ 義之 義顕 田中豊 繁 儀一 杉山寧 瑤子 紀子 平岡定太郎 平岡梓 平岡公威三島由紀夫平岡威一郎 永井岩之丞 なつ 美津子 橋健三 倭文重 平岡千之 近藤三郎 近藤晋一 夏寿美 久美 斎木俊男 14代目竹中藤右衛門 竹中宏竹中祐二 竹中錬一 公子 米内光政 和子 まる子 栄子影木栄貴竹下登 内藤武宣 内藤大湖DAIGO一子 金丸信 金丸康信

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平岡家

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平岡梓」の記事における「平岡家」の解説

祖父太吉農業金融業天保4年1833年10月18日生 - 1896年明治29年6月3日兵庫県平民 祖母・つる 天保7年1836年9月生 - 1916年大正5年)没 兵庫県平民寺岡久平長女 父・定太郎内務官僚第3代・樺太庁長官1863年文久3年6月4日生 - 1942年昭和17年8月26日没 母・夏子東京府士族・大審院判事永井岩之丞長女幕臣・玄番頭永井尚志の孫) 1876年明治9年6月27日生 - 1939年昭和14年1月18日没 妻・倭文重(漢学者橋健三次女1905年明治38年2月18日生 - 1987年昭和62年10月21日長男・公威(作家1925年大正14年1月14日生 - 1970年昭和45年11月25日長女美津子 1928年昭和3年2月23日生 - 1945年昭和20年10月23日次男・千之(外交官1930年昭和5年1月19日生 - 1996年平成8年1月9日没 孫・紀子演出家1959年昭和34年6月2日生 - 孫・威一郎(元実業家1962年昭和37年5月2日生 -

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平岡家

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平岡なつ」の記事における「平岡家」の解説

夫・定太郎内務官僚第3代・樺太庁長官第17代福島県知事野坂昭如によると、「明治二十六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門武家の娘と町人ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられ仕儀江戸時代なら直参陪臣御目見おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分上の者が、百姓に娘を与え場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ母方の祖父徳川連なり父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大とはいえ卒業八年おくれているのだ、まことに不自然」だという。 長男(農商務官僚) 孫・公威(作家)、美津子、千之(外交官

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平岡家

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平岡定太郎」の記事における「平岡家」の解説

兵庫県印南郡志方町(現加古川市、東京都) 詳細は「三島由紀夫」を参照 祖父太左衛門百姓金貸し業) 父・太吉兵庫県平民農業金融業者天保4年1833年生 - 明29年1896年6月没 母・つる(兵庫県平民寺岡久平長女天保7年1836年)生 - 大正5年1916年)没 兄・萬次郎弁護士政治家万延元年1860年)生 - 大正12年1923年12月没 弟・久太郎 妹・むめ 妻・なつ(東京府士族・元大審院判事永井岩之丞の娘、幕臣永井尚志孫娘明治9年1876年6月生 - 昭和14年1939年1月野坂昭如によると、「明治二十六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門武家の娘と町人ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられ仕儀江戸時代なら直参陪臣御目見おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分上の者が、百姓に娘を与え場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ母方の祖父徳川連なり父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大とはいえ卒業八年おくれているのだ、まことに不自然」だという。 長男(農商務官僚) 明治27年1894年10月生 - 昭和51年1976年12月没 孫・公威(作家)、美津子、千之(外交官)など 曾孫紀子演出家)、威一郎(元実業家)など 初代左衛門 2代目左衛門 初代利兵2代目利兵3代目利兵太左衛門 太吉 萬次郎 こと 公威(三島由紀夫紀子 寺岡つる 桜井ひさ 萬壽彦 定太郎 杉瑤子一郎 美津子 永井なつ 千之 義夫 久太郎 義一 むめ 義之 義顕 田中豊 繁 儀一

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平岡家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 01:05 UTC 版)

平岡太吉」の記事における「平岡家」の解説

播磨国印南郡西神吉村宮前現在の兵庫県加古川市西神吉町宮前)・志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)、東京) 父・平岡太左衛門百姓金貸し業)父・太左衛門貧し神吉村では金持ちで、温厚な人柄であったという。そのため天保4年大飢饉加古川流域一帯広範囲打ちこわし起った時、「暴民」は豪農金貸し、藩御用懸りなどを狙った太左衛門眼の仇にはされなかった。 妻・つる(寺岡久平長女長男萬次郎弁護士政治家二男・定太郎内務官僚三男久太郎 長女・むめ

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平岡家

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青天を衝け」の記事における「平岡家」の解説

平岡円四郎ひらおか えんしろう) 演:堤真一 慶喜側近べらんめえ口調江戸っ子で、「おかしれえ」が口癖。一を聞けば十を知り先の世見通せ才覚を持つ。 定職につかずぶらぶらして暮らしていたが、慶喜小姓抜擢され、その純朴な性格慶喜気に入られる攘夷傾倒していた栄一喜作見込み幕府素性知られ進退窮まる2人慶喜目通りさせ、一橋家の家臣取り立てる慶喜の上に伴い近江守(おうみのかみ)に任官され、慶喜作る新しい世を望み尽未来際仕えると誓う。しかしその矢先慶喜そそのかした見なし水戸藩士襲撃され致命傷を負う。死の間際、「俺はまだ死にたくない…」という無念思いと、妻・やすの名を呟きながら息絶える平岡やす(ひらおか やす) 演:木村佳乃四郎の妻。元は芸者だったが円四郎見初められる。 竹を割ったような性格であり、円四郎からは「おかしれえ女」と称される。 円四郎暗殺されたという知らせ受けた際は、その事実を受け止められ取り乱す。 円四郎亡き後明治維新後は置き屋で三味線芸者教えながら暮らしていたが、弥太郎との会談終えて去ろうとする栄一と偶然再会その後自分のもとで芸者として身を立てるために三味線習いにやって来た兼子に、栄一との結婚薦める栄一が兼子と再婚した後、東京養育院開催されバザー川村恵十郎と共に訪れ、今の慶喜見たら円四郎はどう思うのかという本音栄一に話す。栄一が「もし、御前様平岡様なら、どんなおかしれえ日本作ろうとしたでしょう」と返すと、円四郎忘れずにいてくれた栄一感謝する。 よね 演:高野渚 平岡家の女中

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