平岡家
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祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区 三島は、〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが、その祖父・平岡定太郎の本籍は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・加古川市志方町上富木)で、その昔まだ村と呼ばれていた頃は、農業、漁業が盛んな地域であった。また、同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田も盛んで、播磨の塩は「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた。 近くには景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫の御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地でもある。古代、この地は港で、三韓征伐の折に神功皇后が龍船を泊めた。その時に神功皇后が、野鹿の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼び、その後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である。 1573年 - 1591年頃(天正の頃)に、櫛端左京亮がこの地に観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となった。豊臣秀吉の中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城したため、多くの武士、学者が志方に土着化した。 なお、この地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がったこともある。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかった。 「平岡」姓 平岡家の菩提寺・真福寺は1652年(承応元年)の建立である。過去帳によれば、平岡家の祖となる初代は1688年 - 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目も孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次の六代目の平岡太左衛門(たざえもん)の四男が平岡太吉となり、三島の祖父・定太郎は太吉の二男である。 “平岡”姓について、安藤武は、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが、過去帳を見た福島鑄郎によると、平岡姓は、四代目以降の五代目・利兵衛(3人目)からだとしている。 屋号「しおや」(塩屋) 五代目の利兵衛(3人目)のところから「しおや」(塩屋)という屋号が付いているが、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目の利兵衛が農業のかたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売を始めたのではないかとされている。 野坂昭如は、「しおや」(塩屋)の屋号があって不思議はないとし、「“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと説明している。 曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」 七代目にあたる平岡太吉は、妻・つるとの間に、萬次郎、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた。三島の父・梓の従弟・小野繁(むめの息子)が真福寺の住職から聞き出してまとめた報告書には太吉の人物像が次のように記されている。「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石の橋本関雪の岳父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」。 太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎の二男・平岡義一の妻)によれば、太吉は幼少(5、6歳)の頃、領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由で平岡一家は西神吉村宮前から志方村の上富木に移り住んだという。その後、成長した太吉は金貸し業で成功し、果実栽培も軌道に乗って裕福となり、豪邸を建てた。 赤門事件 平岡梓は、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べているが、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという。 志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、加賀の前田家が徳川将軍家から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない」と断じられ「所払い」になったという昔からのいい伝えの話だという。 梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため真偽不明だとした上で、その伝説を幼い頃から父親や祖父から聞かされたであろう三島の脳裏には、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識が刻まれていた可能性があるとしている。福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉の鶴射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島に受け継がれていたとしている。 平岡家部落民説 『月刊噂』の記事(1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元産経新聞四国支社の男性記者)は、平岡家の祖先が、部落民であるかのような記載をしているが、越次倶子が実際に過去帳を調べて写真撮影したものによれば、そういった記述は全く無く、1964年(昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家の壬申戸籍の写しにも、特別変った箇所はなかった。村松剛は、もし過去帳や戸籍に部落民説を裏付ける記述があれば、差別意識の強かったその時代、由緒ある永井夏子と定太郎の結婚は成立しなかったであろうとしている。 近年、過去帳を実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「刑場の役人の下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている。板坂剛の取材に答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている。 平岡家系図 初代孫左衛門 2代目孫左衛門 初代利兵衛 2代目利兵衛 3代目利兵衛 太左衛門 太吉 萬次郎 こと 公威(三島由紀夫) 紀子 寺岡つる 桜井ひさ 萬壽彦 定太郎 杉山瑤子 威一郎 梓 美津子 永井なつ 千之 義夫 久太郎 義一 むめ 義之 義顕 田中豊蔵 繁 儀一 杉山寧 瑤子 紀子 平岡定太郎 平岡梓 平岡公威(三島由紀夫) 平岡威一郎 永井岩之丞 なつ 美津子 橋健三 倭文重 平岡千之 近藤三郎 近藤晋一 夏美 寿美 久美 斎木俊男 14代目竹中藤右衛門 竹中宏平 竹中祐二 竹中錬一 公子 米内光政 和子 まる子 栄子(影木栄貴) 竹下登 内藤武宣 内藤大湖(DAIGO) 一子 金丸信 金丸康信
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平岡家
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祖父・太吉(農業、金融業) 天保4年(1833年)10月18日生 - 1896年(明治29年)6月3日没 兵庫県平民 祖母・つる 天保7年(1836年)9月生 - 1916年(大正5年)没 兵庫県平民の寺岡久平の長女 父・定太郎(内務官僚、第3代・樺太庁長官) 1863年(文久3年)6月4日生 - 1942年(昭和17年)8月26日没 母・夏子(東京府士族・元大審院判事永井岩之丞の長女。幕臣・玄番頭・永井尚志の孫) 1876年(明治9年)6月27日生 - 1939年(昭和14年)1月18日没 妻・倭文重(漢学者・橋健三の次女) 1905年(明治38年)2月18日生 - 1987年(昭和62年)10月21日没 長男・公威(作家) 1925年(大正14年)1月14日生 - 1970年(昭和45年)11月25日没 長女・美津子 1928年(昭和3年)2月23日生 - 1945年(昭和20年)10月23日没 次男・千之(外交官) 1930年(昭和5年)1月19日生 - 1996年(平成8年)1月9日没 孫・紀子(演出家) 1959年(昭和34年)6月2日生 - 孫・威一郎(元実業家) 1962年(昭和37年)5月2日生 -
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平岡家
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夫・定太郎(内務官僚。第3代・樺太庁長官。第17代・福島県知事)野坂昭如によると、「明治二十六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」だという。 長男・梓(農商務官僚) 孫・公威(作家)、美津子、千之(外交官)
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平岡家
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(兵庫県印南郡志方町(現加古川市)、東京都) 詳細は「三島由紀夫」を参照 祖父・太左衛門(百姓、金貸し業) 父・太吉(兵庫県平民、農業、金融業者) 天保4年(1833年)生 - 明治29年(1896年)6月没 母・つる(兵庫県平民、寺岡久平の長女) 天保7年(1836年)生 - 大正5年(1916年)没 兄・萬次郎(弁護士、政治家) 万延元年(1860年)生 - 大正12年(1923年)12月没 弟・久太郎 妹・むめ 妻・なつ(東京府士族・元大審院判事永井岩之丞の娘、幕臣永井尚志の孫娘) 明治9年(1876年)6月生 - 昭和14年(1939年)1月没 野坂昭如によると、「明治二十六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」だという。 長男・梓(農商務官僚) 明治27年(1894年)10月生 - 昭和51年(1976年)12月没 孫・公威(作家)、美津子、千之(外交官)など 曾孫・紀子(演出家)、威一郎(元実業家)など 初代孫左衛門 2代目孫左衛門 初代利兵衛 2代目利兵衛 3代目利兵衛 太左衛門 太吉 萬次郎 こと 公威(三島由紀夫) 紀子 寺岡つる 桜井ひさ 萬壽彦 定太郎 杉山瑤子 威一郎 梓 美津子 永井なつ 千之 義夫 久太郎 義一 むめ 義之 義顕 田中豊蔵 繁 儀一
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(播磨国印南郡西神吉村宮前(現在の兵庫県加古川市西神吉町宮前)・志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)、東京) 父・平岡太左衛門(百姓、金貸し業)父・太左衛門は貧しい神吉村では金持ちで、温厚な人柄であったという。そのため天保4年、大飢饉で加古川流域一帯に広範囲な打ちこわしが起った時、「暴民」は豪農、金貸し、藩御用懸りなどを狙ったが太左衛門は眼の仇にはされなかった。 妻・つる(寺岡久平の長女) 長男・萬次郎(弁護士、政治家) 二男・定太郎(内務官僚) 三男・久太郎 長女・むめ
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平岡家
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平岡円四郎(ひらおか えんしろう) 演:堤真一 慶喜の側近。 べらんめえ口調の江戸っ子で、「おかしれえ」が口癖。一を聞けば十を知り、先の世を見通せる才覚を持つ。 定職につかずにぶらぶらして暮らしていたが、慶喜の小姓に抜擢され、その純朴な性格が慶喜に気に入られる。攘夷に傾倒していた栄一と喜作を見込み、幕府に素性を知られ進退窮まる2人を慶喜に目通りさせ、一橋家の家臣に取り立てる。 慶喜の上洛に伴い近江守(おうみのかみ)に任官され、慶喜の作る新しい世を望み尽未来際仕えると誓う。しかしその矢先、慶喜をそそのかしたと見なした水戸藩士に襲撃されて致命傷を負う。死の間際、「俺はまだ死にたくない…」という無念の思いと、妻・やすの名を呟きながら息絶える。 平岡やす(ひらおか やす) 演:木村佳乃 円四郎の妻。元は芸者だったが円四郎に見初められる。 竹を割ったような性格であり、円四郎からは「おかしれえ女」と称される。 円四郎が暗殺されたという知らせを受けた際は、その事実を受け止められず取り乱す。 円四郎亡き後、明治維新後は置き屋で三味線を芸者に教えながら暮らしていたが、弥太郎との会談を終えて去ろうとする栄一と偶然再会。その後、自分のもとで芸者として身を立てるために三味線を習いにやって来た兼子に、栄一との結婚を薦める。 栄一が兼子と再婚した後、東京養育院で開催されたバザーに川村恵十郎と共に訪れ、今の慶喜を見たら円四郎はどう思うのかという本音を栄一に話す。栄一が「もし、御前様や平岡様なら、どんなおかしれえ日本を作ろうとしたでしょう」と返すと、円四郎を忘れずにいてくれた栄一に感謝する。 よね 演:高野渚 平岡家の女中。
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