三島の家を訪問
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1951年(昭和26年)1月から連載開始された三島の『禁色』を毎回本屋で立ち読みしていた次郎は、作中に出てくるゲイバア・ルドンへの関心が強まった。ついに次郎は、ルドンという店はどこにあるのかという問い合わせの手紙を持参し、5月に目黒区緑が丘の三島の自宅を訪問した。 それを機に次郎は、三島の行きつけの店や知人の家に伴ったりするようになり、書生のような雑用係の立場で平岡家(三島の家)にも出入りするようになった。三島は生涯、秘書や弟子などは付けない方針であったが、次郎はアルバイト学生として三島の本の運搬をしたり、三島の父・平岡梓の手伝いで庭仕事をしたりなどの雑用を任された。 次郎は白山の大学寮から平岡家に通い、梓に処世術やちょっとした作法と躾を教わった。三島の母・倭文重からはいつも優しい言葉をかけられ、美味しい手料理の食卓を一家と共にした。憧れていた家庭の温かみと本当の両親からのような世話や愛情を味わっていたその頃の次郎は、三島の才能よりも、その恵まれた家庭環境に羨望を持っていた。また次郎は、東京の華やかな芸能界や映画界の人間と繋がりのある三島と街に出ることで、文化的な世界に触れたいという願望もあった。 しかし同年夏、伊豆の今井浜にて、次郎の側から縁を切る形で三島との関係に一旦終止符を打ったという。三島が初の世界旅行(詳細はアポロの杯を参照)後に書いた『禁色』の第2部『秘薬』(文学界 1952年8月号 - 1953年8月号に連載)のなかに、金銭に汚く人間的に卑劣な役どころの「福次郎」という名の同性愛者を登場しているのを読んだ次郎は、自分のことを恨んだ三島がその男の名を「福次郎」にしたのではないかと思った。 三島とはぎくしゃくしたものの、次郎は三島の両親とは離れがたく、三島が世界旅行で留守にしている間は、変わらずに平岡家に通っていた。梓と倭文重と一緒に出かけた帰りにお汁粉屋などに入ると、親子3人水いらずのような気分になり、このまま三島が帰国せず自分が平岡家の息子になれたらどんなにいいだろうと次郎は空想した。 ルドンのモデルの店「ブランズウィック」のアルバイトも10日で辞め、他の飲み屋でも長続きせず、金銭に困窮して学生生活もままならなくなっていた次郎が、梓にアルバイト先の世話を依頼すると、元役人の梓は深川木場の米穀倉庫での仕事を探してきてくれた。次郎は正式雇用で採用され、フルタイム勤務で毎日そこで働いた。 しかし1952年(昭和27年)の国文学科3年の春、すでに単位を全部取得し、残すは卒論のみとなっていた次郎は、先輩の紹介で福島県の鮫川村にある農業高校の教師の仕事をすることを決め、5月に東京を離れた。その地の下宿先の宿屋の雇い人の14歳の少年に恋した次郎は、初めてその少年相手に望んだ性を成就することができた。約1年間、鮫川村で教員をしながら井原西鶴の卒論を書き終えた次郎は、大学卒業後は年老いた大叔母(育ての母)の待つ故郷の熊本に帰ることにした。
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