三島の遺書
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三島が楯の会会員・倉持清(1期生、第2班班長)に宛てた遺書は、事件の日の夜に、瑤子夫人から倉持清に手渡された。倉持は、決起した会員4名同様に三島から信頼されていた人物であった。 三島は倉持から仲人を依頼され快諾していたために、〈蹶起と死の破滅の道へ導くこと〉、〈許婚者を裏切つて貴兄だけを行動させること〉は不可能だったことを伝え、人生を生きてもらいたいことを遺言した。 小生の小さな蹶起は、それこそ考へに考へた末であり、あらゆる条件を参酌して、唯一の活路を見出したものでした。活路は同時に明確な死を予定してゐました。あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。それだけに人選は厳密を極め、ごくごく少人数で、できるだけ犠牲を少なくすることを考へるほかはありませんでした。小生としても楯の会会員と共に義のために起つことをどんなに念願し、どんなに夢みたことでせう。しかし、状況はすでにそれを不可能にしてゐましたし、さうなつた以上、非参加者には何も知らせぬことが情である、と考へたのです。小生は決して貴兄らを裏切つたとは思つてをりません。(中略)どうか小生の気持を汲んで、今後、就職し、結婚し、汪洋たる人生の波を抜手を切つて進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。 — 三島由紀夫「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月) この倉持への封書と共に同封されていた楯の会会員一同宛ての遺書は、事件翌日11月26日に代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた森田必勝の通夜の席で、皆に回し読みされた。これを読んだ会員たちは、残された者への三島の思いやりが伝わってきたと回想している。 たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。(中略)革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。(中略)日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。 — 三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)
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