三島の蓮田観
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蓮田善明は16歳の三島由紀夫の出現を〈悠久な日本の歴史の請し子〉〈われわれ自身の年少者〉と祝福し、〈悉皆国文学の中から語りいでられ[霊のやうなひと〉と紹介するなど、三島は「親炙」した蓮田から、「やさしさのみを享け」、その印象は「薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家」であった。 そして蓮田の説く鋭く犀利な〈皇国思想〉〈やまとごころ〉〈みやび〉に三島は強い共感を持ち、「敗戦と共に自決によつてその思想を貫き通した」人物として三島の中に刻まれ、蓮田の実践的死生観は三島の生涯に強い影響を与えた。蓮田が2度目の召集の際、まだ若かった三島に「日本のあとのこと」を託したとされ、蓮田から託された「大事なもの」は、歳を重ねるごとに三島の中により強く復活してくることになった。 小高根二郎の雑誌『果樹園』に1959年(昭和34年)8月から1968年(昭和43年)11月まで断続連載されていた「蓮田善明とその死」を毎号進呈されていた三島は、その感想を小高根に送っていたが、最終回を読んだ後に、蓮田の「立派な最期」を羨ましいと述べている。 毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり込んで行けたのでした。 — 三島由紀夫「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付) そして小高根の『蓮田善明とその死』が刊行される際には序文として、蓮田の『青春の詩宗――大津皇子論』の一節、〈予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる〉を引きながら、「この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして〈文化〉を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る」として、蓮田の「怒り」の本質について以下のように考察している。 私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。 — 三島由紀夫「序」(小高根二郎著『蓮田善明とその死』)
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