三島への出演依頼
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「人斬り (映画)」の記事における「三島への出演依頼」の解説
『人斬り』では三島由紀夫の田中新兵衛役が大きな目玉となったが、三島がこの映画に出演することになったきっかけとしては、三島の自主製作映画『憂国』(1966年4月封切)を観ていた五社英雄が思いつき、橋本忍も賛同した経緯があり、五社が直接、三島邸を訪問して正式依頼した。 岡田以蔵は勝新太郎ときまったが、田中新兵衛の役を誰にするか、が問題になった。勝新太郎と互角に渡り合えて、なおかつ田中新兵衛は大変口数が少ない男で、躰全体から殺気がほとばしっていなくてはいけない。さんざん探したあげく、三島由紀夫さんに白羽の矢をあてた。脚色の橋本忍さんにそのことをいうと「これは全く名キャストだ」と喜んでくれた。 — 五社英雄「演出家の眼」 しかし最初に三島の側に話を持って行ったのは勝プロ製作第1作目に力を入れていた勝新太郎であった。勝は、大映の企画部長の藤井浩明のところにやって来て、「ちょっと頼みがあるんだけどさ、三島さんに出て貰えない?」と『人斬り』の田中新兵衛を三島さんにやってほしいと切り出した。藤井は三島が『からっ風野郎』で主役を演じて以来、『憂国』の映画製作にも携わり、三島のマネージャー的な存在になっていた。 勝から依頼された瞬間、藤井は三島が絶対一発で引き受けると確信していたが、「勝さん、それはわかんないよ」と勿体つけ、勝がさらに頼み込むのを待ってから、「じゃあ話してくるからね」と応じた。そしてその依頼の件を三島に話すと、案の定三島は間髪入れず、「俺やるよ」「この田中新兵衛なら絶対やる!」と即答であった。 五社監督が正式依頼に三島邸を訪問した際にも、三島は嬉しさを隠しきれない様子であった。そんな三島の様子は、「すぐにでも引受けたいような、まるでガキ大将に近藤勇の役を持っていったような」風で、「とても正直な、子供のように無邪気な感じ」だったと五社監督は振り返っている。 三島は「私は時代劇てものはやったことがないけど鬘はのるかね?」とニコニコしながら、すでに気持は決まっていたにもかかわらず、それでも一応勿体つけた様子で、「ともかく明日中に返事をします」と五社を見送った。しかし三島は我慢できずその日の晩すぐに五社に電話を入れ、「ぜひ出させてくれ」と引き受けた。 何ゆゑ私に、幕末の刺客、薩摩侍の田中新兵衛の役が振られたか、多分、下手な剣道をやつてゐてサムラヒ・イメージを売り込んでゐたり、テロリズムを礼賛してゐるやうに世間から思はれてゐたり、また私を使へばその分の宣伝費はタダですむと計算されてゐたり、いろいろの理由があるだらうが、「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。さういふ風にして、私の知らないところで、さういふ相談が進んでゐた、といふことが……そして私の「知的な部分」なんかは全然考慮の外に置かれたといふことが、私をうれしがらせたことは相当なものだつた。それはともかく、橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬つた末、エヽ面倒くさいとばかりに突然の謎の自決を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリストは私の気に入つた。 — 三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」 当時三島は、楯の会を率いての自衛隊体験入隊や、剣道・空手・居合を稽古し自らの思想や美学を実践している有言実行ぶりが若者の間で人気となり、スーパー・アイドル的な存在であった。作家活動だけでないそうした数々の行動ぶりが、どこか幕末の志士とも共通する危険な雰囲気を孕んでいた。 三島が様々なエッセイ・評論を投稿していた雑誌『平凡パンチ』では、読者の人気投票で三船敏郎を720票差でおさえて19,590得票し「ミスターダンディ」の第1位に輝いていた。次に読者投票が行われた「ミスター・インターナショナル」では、第1位のフランスのド・ゴール大統領に次いで、三島は第2位に選ばれた。当時雑誌などの日本のマスコミから「スーパースター」と最初に書かれた有名人が三島だった。 準主役の配役も決まり、1969年(昭和44年)4月25日に映画製作の記者会見が開かれた。五社英雄監督らと共に勝新太郎と三島由紀夫が列席し、衣裳合わせも兼ねて三島は髷姿のサムライの風体で臨んだ。プロデューサーの法亢堯次は三島を配役した理由を、「勝、仲代、石原はいずれも個性の強い役者、これに対抗できる人をと考えた末に思い切って三島氏に頼んだ」と語った。 三島が時代劇に映画出演するということが大いに注目され、各スポーツ新聞は三島の写真も入れ、週刊誌もグラビアでそれを大きく報じた。 時代劇殊に幕末物は好きだが、自分がまさか時代劇に出演することにならうとは、想像もしてゐなかつた。(そんな利口なプロデューサーはゐるまい、とタカをくくつてゐたのが本音である) はじめてカツラをつけ、大小を腰にさしても、剣道や居合の道場の延長で、少しも違和感を感じなかつた。第一、私自身、人から見れば漫画だらうが、幕末の勤皇の志士の心境で、毎日を送つてゐるのだから、その生活感情がそのまま画面に出ればいいのだと思つた。 — 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」 五段を持っていた三島の剣道は警視庁剣道の北辰一刀流で、1965年(昭和40年)からは真剣で居合も習い、1966年(昭和41年)3月からは皇居内の済寧館道場に通っていた。会見で三島は薩摩侍の役作りのため、新たに鹿児島の示現流を学ぶ意気込みを見せた。 この1969年(昭和44年)の夏は、三島原作の戯曲『わが友ヒットラー』、『サド侯爵夫人』などの再演や『癩王のテラス』の話題と共に、この映画『人斬り』出演のことで演劇界はちょっとした「三島ブーム」となり、マスコミの芸能欄を賑わしていた。 役作りのために三島が五社監督に、「テロリストの芝居は何ですか」「一番気をつけることは何ですか」と尋ねると、「テロリストとしたら一種の狂気じみたあなたの目だ、目のエネルギーだ、どう見てもあなたの顔の骨相は犯罪者だ」と答えた。三島はそれを聞くと高笑いし、「違う社会の人と付き合うと、思わぬことを言われますね」と、五社監督に信頼を置くようになった。
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