葬儀・記念碑など
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事件翌日の1970年(昭和45年)11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた三島・必勝の2遺体は、首と胴体をきれいに縫合されていた。2遺体は棺に納められ、午後3時前に死体安置室において遺族に引き渡された。 必勝の遺体は白い死装束に包まれ、縫合部分も隠されていた。遺体と対面した兄・治は、「死顔からは、苦痛があったとは思えませんでした。安らかに眠っているようでした」と述懐している。必勝の遺体はすぐに渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付された。遺骨を拾ったのは、兄・治と、故郷の友人の塩竹政之だけであった。 同日の18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で必勝の通夜が営まれた。必勝の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士」。この通夜の席で、楯の会会員一同へ宛てた三島の遺書が皆に回し読みされ、全員で「君が代」を忍びやかに歌って必勝との別れを悼んだ。 三重県四日市市の実家での通夜は、翌日11月27日に行われた。葬儀は11月28日にカトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、16時頃に納骨された。三島の平岡家からは弟・平岡千之が代表して出席した。 翌年の1971年(昭和46年)1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立されて除幕式が行なわれた。碑には、「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれた。 同年2月28日、楯の会の解散式が西日暮里の神道禊大教会で行われ、三島夫人の平岡瑤子と75名の会員が出席した。瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった。 自決30年後の2000年(平成12年)、地元篤志家の協力で、必勝の故郷・三重県四日市市に銅像「森田必勝之像」が建てられた。銅像の製作は村田英子。 慰霊祭は、毎年11月25日に行なわれる「三島由紀夫研究会」(日学同)による追悼集会「憂国忌」のほか、4年の実刑判決を受けた小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3人が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降に始まった元楯の会会員たちによる慰霊祭も毎年行われている。 11月24日には「野分祭」という必勝の辞世の句にちなんで、阿部勉(1期生)により名づけられた追悼会も、伊藤好雄(1期生)を祭主として一水会の主催で1972年(昭和47年)から毎年行なわれている。命日ではなく前日を慰霊祭としたのは、決起を翌日に控えた必勝の心境に思いを馳せる意味が込められているためである。
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