葬儀・記念碑・裁判など
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事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された。午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・千之に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された。森田の方は、そのまますぐに渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付された。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している。 15時30分過ぎ、病院からパトカーの先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。父・梓は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった。 密葬には親族のほか、川端康成、伊沢甲子麿、村松剛、松浦竹夫、大岡昇平、石原慎太郎、村上兵衛、堤清二、増田貴光、徳岡孝夫などが弔問に訪れた。三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅の薔薇が外から投げ入れられていた。愛用の原稿用紙と万年筆が棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。その時に母・倭文重は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った。三島の遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付された。 森田の通夜も18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。森田の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士」。この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日にカトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した。 11月30日、三島の自宅で初七日の法要が営まれた。三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」としていた。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「彰武院文鑑公威居士」となった。 12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は日本学生同盟などの民族派学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まった。 翌年1971年(昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。大阪のサンケイホールでは、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった。1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・瑤子がお詫びの挨拶回りに来た。 1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、府中市多磨霊園の平岡家墓地(10区1種13側32番)に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めたのではないかという説もある。 1月24日、13時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した。安達瞳子のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた。 弔辞は舟橋聖一(持病のため途中から北条誠が代読)、武田泰淳、細江英公、佐藤亮一、村松英子、伊沢甲子麿、藤井浩明、出光佐三の8名が読んだ。演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた。 先生が身をもって虚空に描き出された灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。私にとってかけがえのない師だった先生、先生の血潮は、絢爛と燃える夕映えの虹のように、日本の汚れた空を染め上げたのです。(中略)いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。燃えたぎる情熱と冷徹な知性とを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。(中略)先生が身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えることなく、先生を愛惜し敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょう。ふつつかな私も、その輝きに忠実を誓うひとりでございます。どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。 — 村松英子「弔辞」 他の参列者は、藤島泰輔、篠山紀信、横尾忠則、黛敏郎、芥川比呂志、五味康祐、中村伸郎、野坂昭如、井上靖、中山正敏、徳岡孝夫などがいた。イギリスのBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した。当時の首相佐藤栄作の寛子夫人も、ヘリコプターに乗り変装してでも参列したいと申し出ていたが、極左勢力が式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題で実現しなかった。 臨時の看護施設やトイレットカーが配備され、私服・制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけた。中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗を立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。 1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。碑には、「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれた。 2月11日、三島の本籍地の兵庫県加古川市志方町の八幡神社境内で、地元の生長の家(現生長の家本流運動)の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。 2月28日、楯の会の解散式が西日暮里の神道禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した。瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった。倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした。三島が各班長らに渡し、皇居の済寧館に預けられていた日本刀は、瑤子夫人のはからいで、それぞれ班長に形見として渡された。 3月23日、「楯の会事件」第1回公判が東京地方裁判所の701号法廷で開かれた。3被告の家族らと平岡梓、瑤子、遺言執行人の斎藤直一弁護士が傍聴した。裁判長は櫛淵理。陪席裁判官は石井義明、本井文夫。検事は石井和男、小山利男。主任弁護人は草鹿浅之介。弁護人は野村佐太男、酒井亨、林利男、江尻平八郎、大越譲であった。 第7回公判日の2日後の7月7日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3被告が保釈となった。犯罪事実を認め、証拠隠滅や逃亡の恐れがないため、17時に東京拘置所を出所した3人は瑤子夫人に出迎えられ、19時から赤坂プリンスホテルで記者会見を行なった。 9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づいた。翌日の9月21日、立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見し、府中警察署に届け出た。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていた葉巻も元の状態であった。 11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された。同日、平岡家では神式の一年祭を丸の内パレスホテルで行なった。 1972年(昭和47年)4月27日、これまで17回の公判までに、中曽根康弘、村松剛、黛敏郎など多彩な人物が証人に立った「楯の会事件」裁判の第18回最終公判が開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名に懲役4年の実刑判決が下された。罪名は、「監禁致傷、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害、職務強要、嘱託殺人」となった。 判決文の最後は「被告人らは宜しく、『学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る』べきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」と締めくくられていた。 3人が刑期を終えて出所してから、元楯の会会員たちによる三島・森田の慰霊祭が始まった。出所した古賀が国学院大学で神道を学んだ後、鶴見神社で神主の資格を取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった。その後、元会員と平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た。 1975年(昭和50年)3月29日、三島と親交があり三島事件に強い共感を示していた村上一郎が、自宅で日本刀により自害した。 1977年(昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄(1期生)と西尾俊一(4期生)が参加した経団連襲撃事件が起こった。瑤子夫人の説得により投降し終結した。 1980年(昭和55年)8月9日、三島が仲人を引き受けていた楯の会会員・倉持清(現・本多清)に宛てた遺書の全文が、朝日新聞で紹介された。同年11月24日、山本舜勝、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が市ヶ谷の私学会館で開催された。 1999年(平成11年)11月下旬と2000年(平成12年)1月4日、三島が楯の会会員一同に宛てた遺書が新聞各紙に公開された。 2018年(平成30年)11月26日、三島事件の当事者で楯の会メンバーの小川正洋が心不全のため70歳で死去した。
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