葬儀・記念碑・裁判などとは? わかりやすく解説

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葬儀・記念碑・裁判など

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:18 UTC 版)

三島事件」の記事における「葬儀・記念碑・裁判など」の解説

事件翌日11月26日慶応義塾大学病院解剖終えた2遺体は、首と胴体きれいに縫合された。午後3時前に死体安置室において、三島遺体は弟・千之に引き渡され森田遺体は兄・治に引き渡された。森田の方は、そのまますぐに渋谷区代々木火葬場荼毘付された。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している。 15時30分過ぎ、病院からパトカー先導三島遺体自宅運ばれた。父・息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ覗いたが、三島伊沢甲子麿託した遺言により、楯の会制服着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ遺体の顔もまるで生きているようであった。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生御遺体だから、特別の気持丹念に化粧しました」と施したのだった密葬には親族のほか、川端康成伊沢甲子麿村松剛松浦竹夫、大岡昇平石原慎太郎村上兵衛堤清二増田貴光徳岡孝夫などが弔問訪れた三島邸の庭のアポロン立像の脚元には、30本あまりの真紅薔薇が外から投げ入れられていた。愛用原稿用紙万年筆納められ16時過ぎに出棺となったその時に母・倭文重は指での顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った三島遺体品川区桐ヶ谷斎場1810分に荼毘付された。 森田通夜18時過ぎに、楯の会会員によって代々木聖徳諦聴寺営まれた。森田戒名は「慈照院釈真徹必勝居士」。この時に三島楯の会会員一同宛てた遺書が皆に回し読みされた。三重県四日市市実家での通夜は、翌日11月27日葬儀11月28日カトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会営まれ16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した11月30日三島自宅初七日法要営まれた。三島両親への遺言に、「自分葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」としていた。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「彰武院文鑑公威居士となった12月11日、「三島由紀夫追悼夕べ」が、林房雄発起人総代とした実行委員会により、池袋豊島公会堂行われた。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である。司会川内康範藤島泰輔実行委員日本学生同盟などの民族派学生で、集まった人々3000人以となった主催者発表5000人)。会場入りきれず、近く中池公園にも人が集まった翌年1971年昭和46年1月12日平岡家49日法要営まれた。大阪サンケイホールでは、林房雄10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人瑤子お詫び挨拶回りに来た。 1月14日三島誕生日でもあるこの日、府中市多磨霊園平岡家墓地10区1種1332番)に遺骨埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島転生のための中有の期間を定めたではないかという説もある。 1月24日13時から築地本願寺葬儀告別式営まれた。喪主は妻・平岡瑤子葬儀委員長川端康成司会村松剛三島親族100名、森田遺族楯の会会員とその家族三島知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した安達瞳子デザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島遺影中心に黒布背景白菊作った大小7個の花玉が飾られ簡素な祭壇設けられた。 弔辞舟橋聖一持病のため途中から北条誠代読)、武田泰淳細江英公佐藤亮一村松英子伊沢甲子麿藤井浩明出光佐三の8名が読んだ演劇界代表した村松英子嗚咽しながら弔辞読んでいた。 先生身をもって虚空描き出され灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。私にとってかけがえのない師だった先生先生血潮は、絢爛燃え夕映えの虹のように、日本汚れた空を染め上げたのです。(中略いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。燃えたぎる情熱冷徹な知性とを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。(中略先生身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えことなく先生愛惜敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょうふつつかな私も、その輝き忠実を誓うひとりでございます。どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。 — 村松英子弔辞」 他の参列者は、藤島泰輔篠山紀信横尾忠則黛敏郎芥川比呂志五味康祐中村伸郎野坂昭如井上靖中山正敏徳岡孝夫などがいた。イギリスBBC放送局が、三島葬儀生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した当時首相佐藤栄作寛子夫人も、ヘリコプター乗り変装してでも参列したいと申し出ていたが、極左勢力式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題実現しなかった。 臨時看護施設やトイレットカーが配備され私服制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口置かれ大きな遺影弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファン押しかけた。中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者葬儀としては過去最大のものとなった1月30日、「三島由紀夫森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され除幕式が行なわれた。碑には、「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字刻まれた。 2月11日三島本籍地兵庫県加古川市志方町八幡神社境内で、地元生長の家現生長の家本運動)の会員による「三島由紀夫偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。 2月28日楯の会解散式が西日暮里神道大教会行われ瑤子夫人75名の会員出席した瑤子夫人実家杉山家神道と関係が深く神道大教会と縁があったため、解散式の場所となった倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に楯の会解散されます〉という三島遺言内容伝えて解散宣言をした。三島が各班長らに渡し皇居済寧館預けられていた日本刀は、瑤子夫人はからいで、それぞれ班長形見として渡された。 3月23日、「楯の会事件第1回公判東京地方裁判所701法廷開かれた。3被告家族らと平岡梓瑤子遺言執行人斎藤直一弁護士傍聴した裁判長淵理。陪席裁判官石井義明、本井文夫検事石井和男小山利男。主任弁護人草鹿浅之介弁護人野村佐太男、酒井亨利男、江尻平八郎大越であった第7回公判日の2日後7月7日小賀正義小川正洋古賀浩靖の3被告保釈となった犯罪事実認め証拠隠滅逃亡恐れがないため、17時東京拘置所出所した3人は瑤子夫人出迎えられ19時から赤坂プリンスホテル記者会見行なった9月20日瑤子夫人墓参の折、墓石位置異常に気づいた。翌日9月21日立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見し府中警察署届け出た盗まれ遺骨は、同年12月5日平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていた葉巻も元の状態であった11月25日埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫三島瑤子平岡瑤子)。生前三島宮崎清隆送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された。同日平岡家では神式一年祭を丸の内パレスホテル行なった1972年昭和47年4月27日これまで17回の公判までに、中曽根康弘村松剛黛敏郎など多彩な人物証人立った楯の会事件裁判第18回最終公判開かれ小賀正義小川正洋古賀浩靖の3名に懲役4年実刑判決下された罪名は、「監禁致傷暴力行為等処罰ニ関スル法律違反傷害職務強要嘱託殺人となった判決文最後は「被告人らは宜しく、『学なき武は匹夫の勇真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る』べきことを銘記し事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現努力傾注することを期待する」と締めくくられていた。 3人が刑期終えて出所してから、元楯の会会員たちによる三島森田慰霊祭始まった出所した古賀国学院大学神道学んだ後、鶴見神社神主資格取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになったその後元会員平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た1975年昭和50年3月29日三島親交があり三島事件に強い共感示していた村上一郎が、自宅日本刀により自害した1977年昭和52年3月3日、元楯の会会員伊藤好雄(1期生)と西尾俊一4期生)が参加した経団連襲撃事件起こった瑤子夫人説得により投降し終結した1980年昭和55年8月9日三島仲人引き受けていた楯の会会員倉持清(現・本多清)に宛てた遺書全文が、朝日新聞紹介された。同年11月24日山本舜勝、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊十年祭」が市ヶ谷私学会館開催された。 1999年平成11年11月下旬2000年平成12年1月4日三島楯の会会員一同に宛てた遺書新聞各紙公開された。 2018年平成30年11月26日三島事件当事者楯の会メンバー小川正洋心不全のため70歳死去した

※この「葬儀・記念碑・裁判など」の解説は、「三島事件」の解説の一部です。
「葬儀・記念碑・裁判など」を含む「三島事件」の記事については、「三島事件」の概要を参照ください。

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