幼年期から虜囚時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 14:29 UTC 版)
「アルテュール3世 (ブルターニュ公)」の記事における「幼年期から虜囚時代」の解説
アルテュール・ド・リッシュモンは1393年にジャン4世とジャンヌ夫妻の次男としてヴァンヌのシュシニオ城(フランス語版)で生まれた。ケルト伝説のアーサー王と同じ名前を付けられたことは、後で災いを招くことになった。リッチモンド伯の称号は幼少時に授けられた。 兄にブルターニュ公ジャン5世、弟にシャントセ領主ジルとエタンプ伯リシャール、姉にアランソン公ジャン1世妃マリー、ロアン子爵アラン9世妃マルグリット、妹にアルマニャック伯ジャン4世妃ブランシュがいる。兄ジャン5世との仲は生涯良好であったようで、様々な援助を受けている一方、リッシュモンは兄の死後にその息子の後見も行い、しばしばブルターニュのために働いている。 1400年、父からリッシュモンら兄弟の後見人に指名されたクリッソンはフランス王シャルル6世と相談して、兄弟達がイングランドへ連れて行かれないように手を打ち、シャルル6世の叔父に当たるブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)に兄弟を託した。兄が無事に公位を継ぐ一方で、リッシュモンはパリでオルレアン公ルイ(シャルル6世の弟)および豪胆公の後見を受けてブルゴーニュへ迎えられた。クリッソンらの配慮のおかげで母が1402年にヘンリー4世の妻として娘達を連れてイングランドに行ってしまうも兄弟はフランスに留まった。 ブルゴーニュでは豪胆公の孫で同世代である後のフィリップ善良公と、姉で後に妻となるマルグリットと共に育てられた。リッシュモンはこの時点でブルターニュ公の弟であり、クリッソンとブルゴーニュ公の後見を受け、イングランド王の義理の息子であり、兄の妻が後のシャルル7世の姉ジャンヌであることからフランス王家とも縁続きであるという華麗な縁戚を持っており、それは後にさらに発展していくことになる。 1404年に豪胆公が亡くなり、後を継いだ息子のジャン1世(無怖公、マルグリットと善良公の父)からは遠ざけられるが、豪胆公の兄でシャルル6世の後見人でもあるベリー公ジャン1世はリッシュモンの人物を買い、シャルル6世の嫡子である王太子ルイに近づけさせた。リッシュモンは兄の援助の下、翌1405年に12歳で初陣を済ませると、いくつかの戦闘にも参加した。ベリー公はソワソン包囲戦の戦勲によりリッシュモンの騎士叙勲も行っている。 一方、宮廷でオルレアン公と無怖公は同族同士で反目していたが、これは英仏両王家のみならず、ブルターニュを巡るモンフォール家とパンティエーヴル家の争いをも再燃させ、無怖公は娘イザベルをパンティエーヴル女伯とクリッソンの孫に当たるオリヴィエ・ド・ブロワ(パンティエーヴル伯ジャンとマルグリット・ド・クリッソンの子)と結婚、対するジャン5世は妹ブランシュをアルマニャック伯ベルナール7世の息子ジャンと結婚させた。宮廷がオルレアン派とブルゴーニュ派に割れる中リッシュモンは兄と共にオルレアン派に属し、1407年にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると、息子でオルレアン公位を継いだシャルルおよび舅のアルマニャック伯らが結成したアルマニャック派に入りブルゴーニュ派と戦った。 リッシュモンは当時の習慣である戦闘後の略奪を嫌っており、1411年のパリ北部の都市サン=ドニ陥落において配下の兵に略奪を禁じたことが記されている。これは後の兵制改革にも通じる。一方、アルマニャック派がヘンリー4世と密約を結ぶ工作を進めると、リッシュモンは1412年にノルマンディーに上陸したクラレンス公トマスが率いるイングランド軍の出迎えおよびブルゴーニュ派が包囲したベリー公の支配地ブールジュを救援、翌1413年にポンティユ伯シャルル(後のシャルル7世)やアラゴン王女ヨランド・ダラゴンと面会、1414年にブルゴーニュ派の拠点であるコンピエーニュ・ソワソンなどを落とす戦功を挙げる。ベリー公と王太子からは恩賞として騎士叙勲、パルトネーの領有権を与えられたが、ここに居座る領主と揉めている時にイングランド軍が上陸、パルトネーを実効支配出来なかった。 1413年に継父のヘンリー4世が没すると、後継者のヘンリー5世が1415年8月にイングランド兵を率いてフランス北部に上陸した。ヘンリー5世はフランス王位を要求し、シャルル6世の娘カトリーヌとの結婚を要求した。これに対して王家に忠誠を誓うアルマニャック派は結集したが、無怖公らブルゴーニュ派は親イングランド的中立を維持し参戦を禁止した。ブルターニュはフランスと同盟しジャン5世は8,000の兵を率いて戦場へ向かったが、これは間に合わなかった。 イングランドとフランスの両軍は史上名高い10月25日のアジャンクールの戦いで衝突し、リッシュモンはフランス国王軍の一員として参加した。百年戦争の通例通り、野戦においては統率もなく騎士道精神の名の下に各人の功名と名誉心で突撃を行うフランス軍は、長弓部隊を中核とするイングランド軍に惨敗し、オルレアン公シャルルを含むフランス貴族の多くは戦死するか捕虜となった。リッシュモンも怪我をした後に捕らえられ、母のいるイングランドへ連行された。 「アーサー(アルテュール)の名を持つブルトン(ブルターニュ)人がイングランドを征服する」という迷信をヘンリー5世は気にしており、兄の度重なる身代金支払いにもかかわらず、リッシュモンは釈放されなかった。イングランドにおいて、母は既に継子であるヘンリー5世からは疎まれ、迫害されていて、彼の助けにはならなかっただけではなく人質にもなっていた。その間フランスでは庇護者の王太子とベリー公が12月と1416年6月15日に相次いで亡くなり(1417年に別の王太子ジャンも死去、ポンティユ伯シャルルが王太子となる)、アルマニャック伯も1418年にブルゴーニュ派に殺害されアルマニャック派は大打撃を受けた。1419年9月10日にパリを奪回した無怖公もアルマニャック派の報復に襲われ暗殺、両派の内乱を尻目にイングランド軍はノルマンディーとイル=ド=フランスを制圧、無怖公の後を継いだフィリップ善良公はイングランドと同盟を結び、1420年5月21日にトロワ条約締結でヘンリー5世の将来のフランス王即位が明文化されるまでになった。ジャン5世も遺恨のあるパンティエーヴル家に一時監禁されるなどリッシュモンにとって不利な状況が相次ぎ苦難の時を過ごした。 リッシュモンはたびたび宣誓の下での自由を得て、兄にイングランドとの同盟を促すための使者となったが、騎士道の習慣と母が人質状態であることから、宣誓を破り完全な自由を得ることはなかった。虜囚は5年続き、1420年7月に条件付きで解放、宣誓状態での虜囚状態は1422年のヘンリー5世の死まで続く(同年にシャルル6世も死去)。
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