王子恵
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王子恵 | |
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『維新政府之現況』(1939年)
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プロフィール | |
出生: | 1892年[1] |
死去: | 不詳(1970年代半ばから後半か)[2]![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 政治家・軍人・ジャーナリスト・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王子惠 |
簡体字: | 王子惠 |
拼音: | Wáng Zǐhuì |
ラテン字: | Wang Tsu-hui |
和名表記: | おう しけい |
発音転記: | ワン ズーフイ |
王 子恵(おう しけい、1892年 - 没年不明)は、中華民国・日本の政治家・軍人・ジャーナリスト・実業家。後年に文成と改名している[3]。王晦知という別名を有していた可能性がある[4]。中華民国維新政府の要人。戦時中は日中和平工作に従事したとされ、戦後は実業家として活動した。なお後述するように、その出自や経歴については不明点や不審点が多い人物である。
事績
出自と初期の活動
王子恵は6歳の頃から日本の学校で教育を受けたとされ[5]、日本語は得意であったが中国語は不得手であった。大手紙の各種報道では「福建省厦門出身」とされ、戦後においては王子恵の父親が「福建省生まれのセレベス華僑」とする報道も見受けられた[6]。
しかし王子恵の出自については、1930年代当時から相当な疑問符が付けられている。例えば外務省の森島守人(北京・上海大使館参事官)は「台湾出身」と認識しており[7][注 1]、同省の岩井英一(上海総領事館副領事)に至っては「中国人か、朝鮮人か、台湾籍民かも定かではない」としていた[8][注 2]。
その後の王子恵の学歴につき、早稲田大学で「修学」した「校友」ということは確認できる[9]。しかし、「卒業」とは記載されておらず、早稲田大学の公的な記録でも卒業者としての名が見当たらない[10]。そのため、当時の日本メディア等における「早稲田大学卒業」との各種報道は[1][5][11][注 3]、誤りと見なせる[注 4]。
1924年(民国13年/大正13年)に中国へ帰国[12]した王子恵はジャーナリストになり、『(北京)国風日報』編輯主任[注 5]、『正義日報』社社長[注 6]などをつとめる。その後、国民軍第2軍駐滬弁事処処長[注 7]、国民革命軍第20軍副軍長兼政治部主任[注 8]、国民政府総参議代表[注 9]、中日経済研究会委員[注 10]を歴任した[1][注 11]。
華中政権首脳擁立騒動
梁鴻志らが行っていた華中での親日政権樹立活動に、当初の王子恵は直接参与していなかったと見られる。ところが間もなく、その王が華中政権の首脳として突然擁立される事態が発生した。
梁鴻志の華中での動きに対し、華北(北平)では王克敏らによる中華民国臨時政府が1937年(民国26年)12月14日に成立していた。その王克敏は、華中にいた梁一派との合流、南北統一政権の樹立を臨時政府創設当初から構想していた[4][注 12]。
この王克敏の統一政権構想に対し、当初の華中側では梁鴻志らはもちろんとして、上海特務方面の原田熊吉や楠本実隆らも支持していたという。ところが、中支那方面軍司令官・松井石根やその部下の臼田寛三・長勇らは、華中にこそ中央政権を築くべきとして華北(北京)主導の統一政権構想に反対した。挙句には、臼田・長らが当時無名だった王子恵を華中政権首脳に擁立しようと目論んだのである[4]。
王子恵が華中政権首脳候補として突然浮上したのは、それまで構築した日本人脈によるところが大きかったと言える。王は「容姿端麗、弁舌爽やかでしかも一種の魅力を具えていた」人物だったと言われ、臼田寛三や長勇からもあっという間に「一見旧知の如く」「信任を博した」とされる。また、臼田・長へ王を紹介したのは頓宮寛(上海福民病院院長)[注 13]であり、中国在住の日本人医師たちの間に支援グループが形成されていた[4]。大陸浪人やジャーナリストにも支援者が存在しており、萱野長知や北昤吉、野依秀市が代表的な存在である。
王子恵は中華民国の国号や五色旗を取り消し、新政府は新国家の創設たるべきと唱えた。支援者グループは王の主張に賛同し、新国旗として日の丸の逆の旗(赤字に白丸)まで用意したとされる[13]。
しかし、王子恵は前述のように出自不明の人物であり、海軍省と外務省はその点を問題視して猛烈に反対した[14]。特に外務省は岩井英一の調査として、上海天長節爆弾事件について「真犯人を手引きするとて、陸海軍を欺き呉淞までわざわざ駆逐艦をも出させた曰くづきの人物、往年の王晦知」こそが王子恵である、との情報をもたらした[4]。
この結果、当初は王子恵擁立に傾いていた松井石根も方針を改め、梁鴻志・温宗尭・陳群の3名に維新政府を組織させる方向へ転換した[14]。梯子を外された王子恵支援グループは暴走し、多数の無頼漢を集めて謀略や暴力的手段に訴えて反王子恵派を屈服させようとした[4]。しかし、これはかえって王の立場を危うくしただけであった。
この首脳擁立騒動に際して、王子恵は土肥原賢二や上海日本大使館の手配により、上海新亜大酒店に活動拠点を置いていた。それを知った梁鴻志は王に面会しようと数度訪問したが、下風に立たされることを恐れた王は断固として会わなかったという[15]。
中華聯合通訊社理事長に就任
親日政権樹立工作が進展する中で王子恵は、沈能毅・夏奇峯・余穀民(余洵)・王西神と共に、新政権の宣伝・広報を担う中央機関の創設を梁鴻志や日本側に提案したという。なお、この5人はいずれも現役・OBの新聞記者・ジャーナリストである。日本側からは上海特務機関の堂ノ脇光雄、同盟通信社中南支総局華文部長の奥宮正澄が加わり、7人で発起人となっている[16][17]。
こうして中華民国維新政府成立前の1938年(民国27年)2月15日に、中華聯合通訊社(通称「中聯社」)が上海に設立された。当初の理事長は堂ノ脇だったが、翌月の維新政府成立に際して王子恵が実業部部長に特任されると、王が替わって理事長を兼任している[16][17]。
維新政府実業部長として
中華民国維新政府が成立した同年3月28日、王子恵は実業部部長に特任された[18]。実のところ、首脳擁立騒動や梁鴻志に対する態度が影響し、新政権において王に提示された当初の地位は、外交部参事という低い地位だったとされる。失望した王は土肥原賢二に泣訴してその斡旋を獲得し、何とか実業部部長に就任できたという[15]。
しかし前述のとおり、王子恵は幼年期から青年期にかけて日本で生活したためか、中国語が不得手で維新政府の会議も欠席気味であったという[19][20][21]。このため実業部内の事務については、次長に就任した沈能毅が多くを指揮することになったと考えられる。
その一方で、王子恵は日本国内での知名度や支持を獲得しようと図る動きを見せている。同年11月、王子恵は日満支経済懇談会に出席するため維新政府の代表として訪日した[22]。同月には、東京市麹町区(現・千代田区)の亜細亜書房から自著『亜細亜の明日を語る』を刊行している。その影響もあってか、訪日をきっかけに日本の様々な媒体から王子恵は注目を受け、活動や言行につき大きく報道されることになった。中国国内でも、実業部広報誌『実業月刊』や、雑誌『中華新声半月刊』・『和平月刊』など各種刊行物において、王子恵は自身の演説や活動を掲載させている[注 14]。
ところが翌1939年(民国28年)7月1日、実業部次長・沈能毅が罷免され、しかも「査弁」(刑事捜査)対象とされてしまう。この維新政府令については、行政院長・梁鴻志の署名があるものの、制度上では部長として同時に署名すべき王子恵の署名が「假(仮)」となっている。すなわち、王の意向を無視した電撃的な罷免であった[23][注 15]。沈を失ったことで実業部の事務が停滞・混乱したのは明らかであり、翌月(8月)10日になると、王自身も実業部長を依願退職してしまった[24]。
首脳擁立騒動などもあってか、王子恵については、維新政府創設当初から日本陸軍中央(陸相・杉山元や陸軍次官・梅津美治郎)に名指しで排除され、早期の辞任を求められるほどの忌避を受けていた[25]。そもそも、旧安徽派幹部の梁鴻志に対して中国政界では無名の王がとった態度からして、王が維新政府内で浮いた存在になるのは必然にして不可避ではあった。また、汪兆銘政権成立に際しての準備や、維新政府内部に実業部改組刷新を熱望する声があったことも、王への辞任圧力になったとの指摘がある[26]。
しかしながら、王子恵の政務への不熱心さが外部から指摘されるほどの問題状況であったにもかかわらず、王子恵が実際に退任するまでには約1年4か月の時間がかかった。加えて、次長・沈能毅の罷免・査弁という強硬手段を伴わなければ、日本側や梁鴻志は王子恵を退任に追い込めなかったのである。この結果から見れば、沈の実業部運営に拠るところが大きかったとはいえ、王・沈体制が基本的に安定していたことの傍証となる[注 16]。
なお異説として、孔祥熙側近・賈存徳の回顧によれば、王子恵は賈を通して孔との連携を深めており、実業部長辞職も孔の示唆を受けたため、というものがある[27]。
下野後の活動
これ以後、王子恵は孔祥熙の代理人として東京で日本との秘密和平工作に従事した。王は元々、畑俊六と密接な関係があったとされる。さらに1940年(民国29年)4月頃からは、王は板垣征四郎とも交渉をもち、板垣から具体的な和平案5項目を提示されたという。しかし結局、交渉は1940年(民国29年)中に決裂したとされる。ただし王子恵の和平工作については、賈存徳にとっても交渉の詳細・時期など不明な点が多かった、としている。また、賈自身が1944年(民国33年)9月に松本重治の紹介で日本側の人物と上海で接触した際、その人物から板垣による和平案の存在そのものを否定されたという[27][注 17]。
晩年
終戦後の王子恵は日本と上海を往復していたとみられている。1945年末には王文成に名を改めたとされる[3]。
1949年(昭和24年)頃に、王文成は中華民国代表部の一員として来日したが、翌年春には政治活動から手を引き、そのまま日本に在住している。1952年(昭和27年)12月には国際実業株式会社という在米華僑が日本に投資するための会社を設立し、その社長に就任した[6][28][注 18]。
1957年(昭和32年)10月31日、王文成は海外融資話をでっち上げ、兵庫県の製鋼会社の経理担当などから7億円を騙し取ったとして、詐欺で検挙された[11]。このときに王文成は、総統蔣介石の特使を自称したという[29][注 19]。
王文成(王子恵)の正確な没年は不明である。ただし、岩井英一の回顧録『回想の上海』が刊行された昭和58年(1983年)から「数年前」とされるため、1970年代半ばから後半との推測は可能と言い得る[2]。
著作
- 『亜細亜の明日を語る』(亜細亜書房、1938年)
脚注
注釈
- ^ 日本による占領前後に南京に滞在していた台湾人は、現地中国人から日本のスパイと指摘されるなどの社会的な弾圧や圧迫を恐れ、おしなべて「福建人」を自称していたとの指摘がある(内田四郎「南京在留邦人の生活」『興亜産業経済大観』(『実業之世界』特別臨時大増刊)、実業之世界社、1939年、170-171頁。同記事の内田の肩書は「南京総領事館警察署長」となっている)。
- ^ 王子恵が「朝鮮人」である可能性を岩井英一が排除していない理由は、本文で言及する上海天長節爆弾事件との関連が念頭にあるため、と考えられる。
- ^ 野依秀市によれば「早稲田大学を出ている」、『東京朝日新聞』記事によれば「早稲田大学政治科卒業」、『読売新聞』記事によれば「大正八年早大を卒業」などとされている。
- ^ ただし、王子恵本人が早大「卒業生」を自称(詐称)していたかどうかは不明である。
- ^ 1911年(宣統3年)4月に白逾桓・景梅九らが北京で創刊した新聞。革命派・反袁世凱派の有力新聞であったため政権から度々弾圧され、復刊と廃刊を繰り返している。1920年代以降は無政府主義を信条とする景が同紙の中心人物となっており、仮に王子恵が編輯主任というのが事実であれば、王自身も無政府主義に傾倒していた可能性が出てくる。なお、この点について関(2014)、31-32頁は、北昤吉の証言を引きつつ、王の無政府主義的思想傾向を指摘している。ちなみに1938年当時も景は健在であり、前年(1937年)に陝西省で『国風日報』を復刊させていた。
- ^ 『正義日報』については詳細不明。例として1925年前後に存在した上海工団連合会機関紙の『正義日報』があるが、同時代にも同名異紙は複数存在する(于右任の参謀たる李椿堂が陝西省で刊行したものや、蔣経国が江西省で刊行していたものなど)。
- ^ 第2軍軍長は胡景翼であり、1925年に胡が死去すると岳維峻(1932年死亡)が軍長を継いだ。「駐滬弁事処処長」なる地位が実際に存在したかどうかは不明。
- ^ 国民革命軍第20軍軍長は四川軍の楊森であり、1938年当時も同職に在任している(日中戦争時において、楊と第20軍は蔣介石派として上海方面に展開)。第20軍の序列において副軍長の存在は確認できないが、1920年代の第20軍において政治部主任兼国民党代表・使節と確認できる人物として朱徳がいる(ニム・ウェールズ著、浅野雄三訳『人民中国の夜明け』新興出版社、1985年、123頁)。
- ^ 具体的に、いかなる役職や地位であるかは不明。
- ^ 具体的に、いかなる組織や団体であるかは不明。
- ^ ただし、これらの経歴の割に、王子恵は当時の中国政界に対する知識や関心が薄いのではないかと疑わせる言動がある。例えば維新政府行政院簡任秘書の陳器伯(陳寥士)の証言によれば、本文で後述する梁鴻志来訪の際に、「梁とはどんな人物か?」と王は周囲に尋ねたという(陳(1981)、85頁)。
- ^ 「臨時政府」という名称とし、また、内政(内務)と外交(外務)の部級機関を当初設置しなかったのは、梁鴻志らの受入れが狙いとされる。なお、統一政権での内政部長には梁、外交部長には廉隅を想定していたという。
- ^ 頓宮寛によれば、上海市大道政府市長の蘇錫文と王子恵とは知人同士であり、頓宮は王を通じて蘇と知り合ったという(「頓宮博士・長田実老と語る」『実業之世界』37巻7号、1940年7月、実業之世界社、75-76頁)。なお、蘇もまた「福建省厦門」出身と自称している一方で、「台湾出身」との情報が存在している人物である。しかも、早稲田大学卒業生と自称(詐称)していたことが明らかとなっている。
- ^ ただし、王子恵自身は中国語が不得手だったため、中国国内の宣伝については沈能毅や竺縵卿(実業部工商司長。日本語に長けていた)、あるいはその他スタッフの助力を得たものと考えざるを得ない。
- ^ なお、沈能毅の罷免・査弁理由は不明で、その後において沈が収監されたとの情報も無い。沈は政界でこそ復帰はならなかったが、華中水産常務としては汪兆銘政権時代の1944年9月時点でも在任している。
- ^ 後任の実業部長署理には、同年4月に外交部長署理になったばかりの廉隅が横滑りで就いた。実業部の混乱収拾が急務だったことをうかがわせる。
- ^ ただし、後の『読売新聞』昭和32年10月31日夕刊、5面でも、王子恵は「陰の和平工作を行」っていたとの記述があり、日本側でも王による和平工作の存在自体については認識が浸透していた模様である。
- ^ 国際興業の顧問には岡村寧次らが就任している。
- ^ 『読売新聞』第一報(10月31日夕刊)では、王文成は「元蔣総統特使」であると報じられていたが、これに対して駐日中華民国大使館の申入れがあり訂正された。ただし、王が中華民国代表部の一員として1949年頃に来日したことは、同大使館も事実と認めている。
出典
- ^ a b c d 「要人の横顔」『東京朝日新聞』昭和13年3月29日夕刊、1面
- ^ a b c 岩井(1983)、404頁。
- ^ a b 関(2015)、41頁。
- ^ a b c d e f 森島(1950)、145-148頁。
- ^ a b 野依(1940)、49-50頁。
- ^ a b 「昭和天一坊の正体」『ダイヤモンド経済雑誌』42巻24号臨時増刊、昭和29年6月10日、136-140頁。
- ^ 森島(1950)、146頁。
- ^ 岩井(1983)、400頁。
- ^ 早稲田大学紳士録刊行会編(1939)、199頁。
- ^ 早稲田大学編(1936)。
- ^ a b 「王子恵元蔣総統特使 サギで検挙 被害七億円に上る」『読売新聞』昭和32年10月31日夕刊、5面。
- ^ 王(1938)、138頁。
- ^ 北光永(北昤吉)「上海だより(続)」『祖国』昭和13年6月号、学苑社、74-76頁。
- ^ a b 関(2015)、34頁。
- ^ a b 陳(1981)、85頁。
- ^ a b (中華民国維新政府)行政院宣伝局編(1939)、269頁。
- ^ a b 鳥居英晴「中聯社初代理事長は軍特務部少佐 「同盟」の対中発信を検証する(中)」『メディア展望』第592号、2011年5月1日、新聞通信調査会、28頁。
- ^ 維新政府令、民国27年3月28日(『政府公報』第1号、民国27年4月11日、維新政府行政院印鋳局、4頁)。
- ^ 関(2015)、31頁。
- ^ 丸山(1950)、67-68頁。
- ^ 木戸日記研究会・日本近代史料研究会(1977)、89頁。
- ^ 「王子恵氏渡日」『東京朝日新聞』昭和13年11月5日夕刊、1面。
- ^ 維新政府令、民国28年7月1日(『政府公報』第63号、維新政府行政院印鋳局、民国28年7月17日、1頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年8月10日(『政府公報』第68号、民国28年8月21日、維新政府行政院印鋳局、1頁)。
- ^ 「中支政権樹立に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120267600、支受大日記(密)其11 昭和13年自3月12日至3月18日(防衛省防衛研究所)
- ^ 関(2015)、39頁。
- ^ a b 賈(1980)、74-78頁。
- ^ 人事興信所編『日本職員録 第五版』、1954年、373頁。
- ^ 「訂正」『読売新聞』昭和32年11月1日夕刊、5面。
参考文献
- 王子恵 編『亜細亜の明日を語る』亜細亜書房、1938年。
- 関智英「日中戦争前後における日中間交渉の一形態 -王子恵と彼を巡る人々-」『現代中国研究』No.35・36、2015年11月6日、29-46頁。
- (中華民国維新政府)行政院宣伝局編『維新政府初周紀念冊』上海木村印刷所、1939年。
- 賈存徳「孔祥熙与日寇勾結活動的片断」中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会 編『文史資料選輯 第29輯』中国文史出版社、1980年。
- 陳器伯(陳寥士)「梁鴻志与偽維新政府」中国人民政治協商会議江蘇省曁南京市委員会文史資料研究委員会 編『江蘇文史資料選輯 第2輯』江蘇人民出版社、1981年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 : 一外交官の回想』岩波文庫、1950年。
- 岩井英一『回想の上海』「回想の上海」出版委員会、1983年。
- 野依秀市『南北支那現地要人を敲く』秀文閣書房、1940年。
- 丸山静雄『失われたる記録 対華・南方政略秘史』後楽書房、1950年。
- 『林秀澄氏談話速記録Ⅲ (日本近代史料叢書 B-5)』木戸日記研究会・日本近代史料研究会、1977年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編 編『早稲田大学紳士録 昭和十五年版』早稲田大学紳士録刊行会、1940年。
- 早稲田大学編 編『早稲田大学一覧 昭和十二年』早稲田大学、1936年。
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