維新政府参加と和平工作
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早稲田大学政治科を卒業。帰国後はジャーナリストとなり、『北京国風日報』編輯主任、『正義日報』社社長などをつとめる。その後、国民軍第2軍駐滬弁事処処長、国民革命軍第20軍副軍長兼政治部主任、国民政府総参議代表、中日経済研究会委員を歴任した。 中華民国維新政府が成立した1938年(民国27年)3月、王子恵は実業部部長に任命された。同年12月に訪日したが、翌年6月には早くも実業部長を依願退職してしまう。この点について孔祥熙側近・賈存徳の回顧によれば、王子恵は賈を通して孔との連携を深めており、実業部長辞職も孔の示唆によるものとされる。 これ以後、王子恵は孔祥熙の代理人として東京で日本との秘密和平工作に従事した。王は元々、畑俊六と密接な関係があったとされる。さらに1940年(民国29年)4月頃からは、王は板垣征四郎とも交渉をもち、板垣から具体的な和平案5項目を提示されたという。しかし結局、交渉は1940年(民国29年)中に決裂したとされる。ただし、王子恵の和平工作については、賈存徳も交渉の詳細・時期など、不明な点が多いとしている。また、賈自身が1944年(民国33年)9月に松本重治の紹介で日本側の人物と上海で接触した際、その人物から板垣による和平案の存在そのものを否定されたという。
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