維新政府から南京国民政府へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:12 UTC 版)
「梁鴻志」の記事における「維新政府から南京国民政府へ」の解説
日中戦争(抗日戦争)が本格勃発した1937年(民国26年)末ごろから、梁鴻志は日本軍の誘いを受け、親日政府の組織を準備し始める。翌年3月28日、南京に中華民国維新政府が樹立された。梁は行政院院長兼交通部部長として、その首脳をつとめている。同年9月、北平(北京)の中華民国臨時政府を率いる王克敏と梁との交渉を経て、臨時政府と維新政府の連合機関である中華民国政府連合委員会が北平に設立された。 1939年(民国28年)6月から、梁鴻志は汪兆銘(汪精衛)との合流交渉を開始した(9月から王克敏も参加)。当初、梁は汪の下風に立つことを望まず、なかなか交渉は成立しなかった。結局、日本の圧力もあって、梁は汪の下位となることを承諾している。1940年(民国29年)3月、南京国民政府は成立する。梁は監察院院長兼中央政治委員会委員に就任し、これと同時に維新政府は解散された。梁は、1944年(民国35年)11月より立法院長に転じた。 日本敗北後の1945年(民国34年)10月19日、梁鴻志は漢奸として蘇州で逮捕され、上海へ移送される。1946年(民国35年)6月21日、江蘇高等法院第二分院で死刑判決を受けた。同年11月9日、銃殺刑に処せられる。享年65。
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