維新政府への出仕と遣欧使節副使
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「山口尚芳」の記事における「維新政府への出仕と遣欧使節副使」の解説
新政府においては、明治元年(1868年)3月に外国事務局御用掛、4月に外国官、5月に大阪府判事試補、9月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、11月には外国官判事になるとともに箱館府在勤を命ぜられ、従五位下に叙せられる。明治2年(1869年)1月、長崎に出向きフルベッキに対し東京に新たに大学を作るため招聘する旨伝え、フルベッキはこれを受諾する。4月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられる。5月、会計官判事を命ぜられ、6月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。7月、大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、大蔵大丞兼民部大丞となる。 明治3年(1870年)5月、北海道開拓御用掛を命ぜられ、明治4年(1871年)8月には外務少輔に転じた。同年10月、従四位に叙された上で、米欧の視察および条約改正の下準備として岩倉を全権大使とした岩倉遣欧使節が派遣されるにおよび団員となり、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文とならぶ副使に任命されて、明治6年(1873年)9月まで、各国を歴訪した。その際、子息・俊太郎を帯同し、彼を英国に留学させたまま帰国する。
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