維新政府における町年寄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
慶応4年(1868年)4月に江戸城が官軍に明け渡された後も、町年寄は旧来通りの職務を続けていた。しかし、明治元年(1868年)9月15日の令で、町年寄への届け出は東京府へ申し出ることになり、町年寄は東京府の「市政局庶務方」へ配属させられている。このため町への触達は世話掛名主の業務となった。そして、明治2年(1869年)正月、町年寄と「町年寄並(なみ)」として職務の補佐に当たっていた地割役の樽三右衛門は免職となった。 拝領地の地代は明治元年(1686年)9月から彼らの手元に入らなくなったらしく、生計困難のため嘆願して、一定の地代を納めて旧拝領地を借地していたようである。 免職後の彼らの様子ははっきりしないが、樽屋16代目の樽俊之助は明治5年(1872年)10月から算術の私塾を開き、館興敬(奈良屋)は後に日本橋区長となったことが分かっている。
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