維新慶賀正使
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1871年(明治5年〈同治11年〉)、明治政府は琉球に使者を送るよう要求し、琉球王府はこれを維新政府への慶賀使と解釈し、尚泰王の名代として朝直を正使、宜野湾親方朝保を副使として東京に派遣する。ところが、明治天皇の名目で発せられた詔書の内容は「尚泰を琉球藩王となし、叙して華族に列す」とあり、琉球王国を天皇が任ずる藩王が治める琉球藩とするものであった。朝直らは困惑したが、日清両属体制を明治政府が認めたものと解釈して受け入れた。
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