維新後の活動
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維新後は秋田県令・千葉県知事をはじめ、多くの県知事職を歴任した。農政面での政策では多大な功績を残した。秋田県で現在でも行われている農業イベントの種苗交換会に繋がる会を招集したのは彼であった。海援隊時代の同志であった陸奥宗光が農商務大臣に就任した際、英吉を次官に迎えて国政を相談したとされている。明治29年(1896年)6月5日、維新の功により男爵を授けられる。明治31年(1898年)8月20日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され、明治34年(1901年)に63歳で没するまで在任した。 海援隊にあっては指折りの逸材とされ、長岡とともに「二吉」と賞される。福岡孝弟、陸奥と並ぶ人物であった。
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維新後の活動
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明治2年11月28日には勝海舟の元を訪れ、10両の無心をしている。明治8年(1875年)、甲府城址で開催された甲府博覧会の主催と企画を行った。 結城は元々、中国語から訳した聖書を読み物として持っていたが、明治11年(1878年)暮れに夫婦とも高熱により乳飲み児の世話すら出来ない危機を祈りによって脱した経験からキリスト教に関心を持ち、同年7月に甲州桜町に講義所を開いていたカナダの宣教師C・S・イビー(Charles S. Eby)のもとを翌年訪れ、その教えに感銘を受け授洗。明治に入ってからキリスト教が解禁されたとは言え、まだ市井には「耶蘇」と蔑まれ、「子どもの生き胆を喰う」「良からぬ魔法を使う」などと言われていた時代であったが、精力的に伝道を行い、特に静岡県や山梨県方面でのキリスト教布教に功績があったことは確かな模様である。子息の書によれば「東海道のムーデー(D. L. Moody、アメリカの有名な伝道士)」と呼ばれ、京都・大阪にまでその名が届いたという。 彼は日本最初の「福音士」であった。これは「一つの教会に留まらずに自由に伝道を行える者」として正規の牧師職の代わりに与えられた立場であった。しかしながら後に伝道初心者に対して与えられる立場ということになってしまい、無二三の教会からの収入も減少していくことになる。自身によると、これは対立する派閥によって妨害を受けたということらしい。 ちなみに説法や賛美歌はあまり上手くなかったらしい。もっぱらその熱意と人柄とによって信者が集まってきたものと考えられる。
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