維新後の東京の上水事情
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「淀橋浄水場」の記事における「維新後の東京の上水事情」の解説
明治維新以前の江戸の水道は玉川上水と神田上水を水源とした7つの分水組合によるものであったが、東京府が設置されて組合が解散した後もこれら2系統による給水が続いた。維新初期の度重なる官制変更により所管官庁は二転三転し、1870年(明治3年)から1872年(明治5年)まで玉川上水路に通船を許可したり、1874年(明治7年)まで水道料金(上水賦金)が徴収されない時期があるなど暫く混乱が続いた。 このような混乱により東京で上水の水質悪化が問題となった。導水路は、降雨時に混濁が激しく、生活汚水や塵芥、動物の死体や糞尿が流入し、玉川上水は自殺の名所で水死体も流れた。木樋の排水管は継目から容易に汚染物質が混入し、高圧送水されていなかったことから腐食した木樋が水に溶解するなど、衛生面で問題になっていた。 玉川神田両上水や上水井戸の水質改善は政府の案となり、帝都の衛生上の問題だけでなく、近代国家の体面にかかわる問題でもあると考えられた。水道の抜本的な近代化が必要であるとして、1872年から来日していた内務省土木寮雇オランダ国工士ファン・ドールンに調査を命じ、1874年(明治7年)に『東京水道改良意見書』と1875年に『東京水道改良設計書』がそれぞれ提出された。旧水道の実態調査で汚染の実態を目の当たりにした東京警視廳係官の奥村陟は水道改良を訴え、上司で東京警視廳少警視の桧垣直枝も西洋の水道政策採用を東京警視廳大警視の川路利良に上申して内務卿(内務大臣)の伊藤博文に提出された。これを審査した内務省土木寮・石井省一郎も奥村と同様水道の鉄管化の必要性を説き、1876年(明治9年)に政府は東京府に水道改正委員を設置して上水清潔事業を開始した。委員会は1877年(明治10年)に上水の改良方法や建設費用等の調査報告書『府下水道改設之概略』を提出した。 1878年(明治11年)に東京警視廳及び東京府は神田玉川両上水水源取締仮規則及び飲料水注意法を制定し、上水井戸の管理を厳しく定めた。1879年(明治12年)に(旧制)東京大学理学部准助教の久原躬弦らが行った上水井戸や堀井の調査で「希薄の尿液」と飲料水に不適であることが厳しく指摘された。このため玉川上水は浚渫や土手の構築を行い、神田上水は一部を暗渠化して対応した。1880年(明治13年)に東京府は『東京府水道改正設計書』を立案した。 1885年に東京でコレラが大流行し、1886年(明治19年)8月7日付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)は「清潔法の骨髄は、飲料水の改良と下水の改良にある」と報じて上水改良と下水道網の整備を訴えた。東京におけるコレラ大流行は、近代水道の必要性を一般国民に広く認識させ、政府は水道改良事業計画の策定を加速させる契機となった。
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