維新後の東京の上水事情とは? わかりやすく解説

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維新後の東京の上水事情

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:31 UTC 版)

淀橋浄水場」の記事における「維新後の東京の上水事情」の解説

明治維新以前江戸水道玉川上水神田上水水源とした7つ分水組合よるものであったが、東京府設置され組合解散した後もこれら2系統による給水続いた維新初期度重なる官制変更により所管官庁二転三転し、1870年明治3年)から1872年明治5年)まで玉川上水路に通船許可したり、1874年明治7年)まで水道料金上水賦金)が徴収されない時期があるなど暫く混乱続いたこのような混乱により東京上水水質悪化問題となった導水路は、降雨時に混濁激しく、生活汚水塵芥動物死体糞尿流入し玉川上水自殺の名所水死体流れた木樋排水管継目から容易に汚染物質混入し高圧送水されていなかったことから腐食した木樋溶解するなど、衛生面問題になっていた。 玉川神田上水上水井戸水質改善政府の案となり、帝都衛生上の問題だけでなく、近代国家体面にかかわる問題でもあると考えられた。水道抜本的な近代化が必要であるとして、1872年から来日していた内務省土木寮雇オランダ国工士ファン・ドールン調査命じ1874年明治7年)に『東京水道改良意見書』と1875年に『東京水道改良設計書』がそれぞれ提出された。旧水道実態調査汚染の実態目の当たりにした東京警視廳係官奥村陟は水道改良訴え上司東京警視廳警視桧垣直枝西洋水道政策採用東京警視廳大警視川路利良上申し内務卿内務大臣)の伊藤博文提出された。これを審査した内務省土木寮・石井省一郎奥村と同様水道鉄管化の必要性説き1876年明治9年)に政府東京府水道改正委員設置して上水清潔事業開始した委員会1877年明治10年)に上水改良方法建設費用等の調査報告書府下水道改設之概略』を提出した1878年明治11年)に東京警視廳及び東京府神田玉川上水水源取締規則及び飲料水注意法を制定し上水井戸管理厳しく定めた1879年明治12年)に(旧制東京大学理学部助教久原躬弦が行った上水井戸堀井調査で「希薄の尿液」と飲料水不適であることが厳しく指摘された。このため玉川上水浚渫土手構築行い神田上水一部暗渠化して対応した1880年明治13年)に東京府は『東京府水道改正設計書』を立案した1885年東京コレラ大流行し1886年明治19年8月7日付の東京日日新聞現在の毎日新聞)は「清潔法の骨髄は、飲料水改良下水改良にある」と報じて上水改良下水道網の整備訴えた東京におけるコレラ大流行は、近代水道必要性一般国民広く認識させ、政府水道改良事業計画の策定加速させる契機となった

※この「維新後の東京の上水事情」の解説は、「淀橋浄水場」の解説の一部です。
「維新後の東京の上水事情」を含む「淀橋浄水場」の記事については、「淀橋浄水場」の概要を参照ください。

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