維新後の仰山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 07:24 UTC 版)
明治維新前後に、中島家に養子に入り、中島姓を名乗る。徳川慶喜に従い、上野大慈院、水戸弘道館、静岡宝台院、静岡紺屋町と移動し、二級侍従として勤める傍ら、慶喜に油絵を教えた。なおこの時、仰山は古風なピストルを所持し、これを持って慶喜のお供をしたという。 明治5年(1872年)東京へ移住し、内務省博物館掛で出仕し、ここで動物画を中心に博物図譜的な挿絵を多く描いた。他の画家たちと共作をした「大日本国産童蒙一覧」では仰山は草綿一覧、製茶一覧、葛布一覧、糖製一覧などを描き、明治21年(1888年)まで博物館で仰山の名を見ることが出来る。展覧会にも何度か出品したらしく、明治7年(1874年)湯島聖堂大成殿での新古書画展に「油絵、人物・柳橋真果図」を、明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、第三区支那南北派として「孔雀」「月ニ蝙蝠」を出品している。明治17年(1884年)刊行の杉浦高陽閲 渡辺祥霞編 『明治画家略伝』では、「北 中島仰山 浅草区西三筋町十六番地 花鳥 天保三年七月生ル 幕府ノ臣ナリ 岡田鶴川ノ門人タリ」 と記載されている。その後、絵を廃して博物局を退き、静岡の曲金(現静岡市駿河区曲金)あたりの寺に住み、茶の湯や生花などを教えたという。
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