維新後の散逸
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函館大経によると、連れてきた馬を飼う場所に困り、駿河愛鷹牧の野馬改良を兼ね同所へ移したが、飼う余裕がなく、馬はフランスより日本政府に贈られたもので徳川の私有でないとして、新政府へ引き継ぐこととなった。東京に引き連れていったところ、受け取りを拒否され、山岡鉄舟に相談した結果、水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配布、1頭を小松宮に献上、不良の1頭を函館大経がもらったとのことである。馬の価値を理解しなかったのは新政府、やむなく馬を分けたのは旧幕臣という事になる。 白井市『広報しろい』の記事が大経の談話を裏付けるので、重複を含め要約を示す。現白井市域に存在した冨塚村の牧士、川上次郎右衛門が惣取締役となり、飼育方法の伝授(前述)に携った。関係資料に牧士見習と同格の存在として後の戸長となった中村善太郎らしき名前がある。26名の別当(前述)中、16名が白井市域の出身である。馬は行方不明となったが、近年様々な史料が発見され、行方が少しずつ判明してきている。維新後、勝海舟の指示で小野儀三郎(大経)が沼津に馬を移し、川上次郎右衛門が飼育担当に任命され、沼津に移住した。明治2年、府中藩が飼育しきれなくなり、鉄舟の裁断で一部の馬を水戸・尾張や小松宮に配った。うち、越前松平家へ2頭の引渡しの際の文書が福井県文書館で発見され、小野儀三郎と川上次郎右衛門の名が記されている。分配後に儀三郎が残った1頭をもらい、次郎右衛門は明治3年に冨塚村に戻った。白井市域での巨大な馬に乗った次郎右衛門の目撃談もある。 日本馬事協会『70年の歩み』では、函館大経が引取った馬は富士越で、流星栗毛の雄、明治3年招魂社での競馬で人々を驚かせた後、明治5年9月、大経によって函館に運ばれ、明治8年から恵庭市にあった牧場で種馬となったと記している。 1870年(明治3年)根岸競馬で函館大経が日本人として初めて競馬で外国人に勝ったとする資料がある。 1871年(明治4年)雑誌『新聞雑誌』の「二号」には、5月15日招魂社祭で、日本人外国人4人で競馬を行い、ついに日本人が勝ち、この日本人は雉子橋門外牛馬商社の鐵沓師との記事があると、1908年『明治事物起源』にあり、馬は奥(奥州・奥羽)産のアラビア馬との伝聞も記している。『新聞雑誌』は木戸孝允の創刊で、江戸東京博物館によると、「二号」は「ザンギリ頭を叩いてみれば」の戯歌が載った号で、発行は5月である。執筆が1871年5月15日より前なら、前述の根岸競馬での函館大経の話と一致はするが、場所が異なる。 1871年(明治4年)12月9日『仏国政府ヨリ旧幕府ヘ寄贈ノアラヒヤノ馬ニ付同公使ノ好意ニ答フ』『仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺』があり、明治維新に伴う馬の散逸が判る。文書に途上で馬を見たフランス公使の指摘から、散逸した馬と雉子橋の厩で馬が何頭か確認できた事、雉子橋の馬は大切に扱われ繁殖にも役立っている事、飼育等は来日したフランス「有名の牧師カズノブ」に聞くべき事等とある。この日の文書提出は、1894年(明治27年)農商務省農務局『畜産要務彙集』でも裏付けられる。文書では、廃藩置県を行った明治政府が、散逸後の馬の持ち主に対し、差し出させるのは甚だ不条理と異例の配慮を示し、持ち主に対する特別な配慮と馬の回収に消極的である事が判る。小金牧の高田台牧跡に広大な土地を所有し迅速測図に大隈邸と記載されるほどの家屋を有していた大隈重信の名も見られる。国内の混乱もあるにせよ、公使からの指摘後の捜索開始は、明治政府の馬の重要性に対する未認識か政府側の不手際の認識を示す。文書中、フランス公使に対して使われた「気の毒」という言葉は、本来の「気分を害する」の意として使われたとしないと意味が通らない。馬は30頭とされている。 1872年(明治5年)4月5日付『先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合』では、馬が数頭とされ、別段蕃殖の姿も見えず、フランス公使より度々苦情申立てがあり、大蔵省から兵部省に、馬のうち静岡県に残っていた牡牝2頭を送るよう要請がなされた。 同4月13日付『兵学寮より沼津兵学寮にアラヒヤ馬到着の儀に付申出』で2頭の到着が確認できる。 1873年(明治6年)、3月、澤護によると、再来日後のカズヌーフ自身による『産馬意見書』が提出され、その中で馬は小金牧へ連れて行き、係の教育指導に当たる手筈だったが、突然の変事により御破算になり、その後、馬も離散したが、9疋の種馬を確認していると記述がある。ここでも。幕府による馬の重視と維新後の馬の散逸が判る。種馬が牡馬を指すなら、ほとんどの牡馬が確認されていた事になる。 3月14日付『元勧農局用地雉子橋門外厩一棟秣置場一棟焼失』した。 6月、カズヌーフが明治政府に雇用された。『函館ノ賊ニ応援スル仏国人ニ対シ遺憾ナキ旨ヲ公使ニ報ス』、フランス語の原文とともに『宮内省仏国馬術教師カズヌーフ雇入』の公文書が残る。 1874年(明治7年)6月28日か29日、カズヌーフが東京を出発し、畜産調査のため、東北地方へ出発した。『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』から、宮城より青森・岩手・福島・山形・磐前・水沢之六県と帰路茨城に寄る予定であった。帰路、11月21日、カズヌーフが死去した。詳細はアンドレ・カズヌーヴ参照。 カズヌーフ死去前後について、1886年(明治19年)の今泉六郎『大日本馬種略』を再録した、1896年の陸軍乗馬学校の同名書に、最近、慶応3年秋、フランス皇帝ナポレオン3世からアルジェリー種の良馬が贈られ、この件について親しく詳細を聞いた「鼓(正しくは支が皮)氏」の話の概略としての記述がある。飼司カズヌーフが馬をつれて来た事と本邦馬産の改良を希望したものである事の後に「然ルニ當路者ソノ然ル所以ヲ察セズ徒ラニ尋常一様ノ進物ノ觀ヲナシ盡ク之ヲ姻族重臣ノ間ニ分チ」「維新ノ后、余、浪華ニ在リ、夙ニ彼ノ優種ノ暴殄ニ瀕セルヲ慨シ」馬を探した事と、福山藩にいた1頭は鼓の働きかけにより、兵部省を経て宮内省所有となり、それが若紫である事、越前家に残っていた3頭は旧家臣吉田某の私有となっており、事情により公有にならず、フランス人アマドーの手に落ちた後、行方不明になった事が記されている。さらに、それより前、鼓が同行して奥羽の牧場へ探究に行ったが、カズヌーフが病に倒れ終に立たず、鼓の素志も画餅に帰したが、早く今日の盛代に逢ったので、カズヌーフの鬼(魂)ももって瞑すべきであるとある。 鼓は『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』にある、カズヌーフと共にいた東北に赴いた鼓包武に一致する。澤護の論文とも一致する。鼓は馬の離散を強く批判、馬の離散に憤慨した時期を、維新後でかつ鼓が大阪にいたと記し、離散が維新後である事が判る形になっている。時系列上、解りにくい話の構成であるが、大経の話を裏付け、カズヌーフの話と一致する。本邦の馬の改良を希望したのは幕府とある事、カズヌーフの死後、旧親藩の旧家臣から新政府ではなく、カズヌーフの母国の人間に馬が渡り、その理由が省略されている事から、馬の接収に際し新政府側に、「ことごとく、姻族重臣の間で分ける」等の不手際があり、その不手際を鼓が知っていた事が示唆される。当時、鼓は大尉とはいえ、長州出身の陸軍軍人で、その意向に反して、新政府に馬を渡さなかった事から、アマドーはある程度の権力を行使できた人物でなくてはならず、御雇外国人として記述された『兵部省代たる林兵部少丞仏国アマド君との間に取極むる仮定約』『外務大少丞御省雇外国人へ相渡置臨時通行免状御返却可申候』の、1871〜74年に雇用された騎馬関係のフランス人アマド、『御雇外国人一覧』の騎兵関係のフランス人アマトルイと一致し、被雇用はカズヌーフ死去の年までである。『馬学書印刷の義に付伺』では、フランス騎兵教師として、アマト、カスヌーフが並んで記され、ほか2人の御雇外国人の名がある。カズヌーフの俸給は最初250円、後に300円、アマドーは150円で、ブリュネとも親しく、フランス公使を通じて日本政府に苦情を申入れるだけの力を持ったカズヌーフに馬が渡らなかった事、カズヌーフの死後、鼓が探したとある事から、3頭の馬は鼓により発見され、カズヌーフが見つけた9頭と別の可能性もあるが断定はできない。福山藩の1頭も、同様である。 1875年(明治8年)の馬の動向について、1941年日本競馬会『宮内省下総牧場における競走馬の育成調教』には、「明治8年、勧農局試験場より牽入れられた16頭のうち、著名な牝馬吾妻號はナポレオン三世から贈与された7頭中の1頭、佛アラ高砂號の持込馬で、蕃殖成績優秀、現今尚この血液受けたるもの多く、今日の下総牧場の基礎となり、又本邦各馬産地に散在し斯界の為忘れることのできない功績を残してゐる」とあり、輸入馬の表に、老松・佛國産サラブレッド・鹿毛、高砂・佛國産アラブ・芦毛が記されている。 1877年(明治10年)、村上要信は兼務先の取香種蓄場で、巴里と名づけられたイロンデールを見たと『日本馬匹改良策』に記している。その後、イロンデールは駒場、ついで、上野で飼われ、一頭も子を産まなかったと記している。また、若干を雉子橋の厩で見たともしているが、厩が火事になる前以外、時期については不明である。 今井吉平1910年『馬政学』に、馬は1861年(文久元年)日本着、カヅヌーフが付添って来たが、当事馬匹改良の必要性を知らず徒に権門貴顕に与えてしまった、内一頭の牝巴里(アイヨンデール)号は1894年(明治27年)37歳で斃死した等とあり、『取調書』と似た馬の一覧の表がある。フランス名のイロンデールをアイヨンデールとした点から見て、今井吉平にはフランス語の知識がなく、和訳された表をカタカナからカタカナへ英語読みで誤訳したものと推定される。1894年に37歳で斃死したなら、生年は1858年頃になるが、表には7歳とあり、1861年までに7歳になる事は不可能のため、本項の馬に関しては『馬政学』は信憑性に欠ける。 馬の散逸の時期を維新前とすると、幕末とは言え、将軍の馬を幕府関係者が勝手に私物化した事になり、幕府による馬の重視とカズヌーフの重用なしでは、カズヌーフが伝習隊で乗馬等を指導し、後に箱館戦争において重傷を負うまで幕府側について戦った事、大鳥圭介が『南柯紀行』で、函館へ向かう途中、仙台で旧師に再会し互いに感激した旨を記した事が説明しにくい。また、大経の具体的な話と矛盾する。小金牧の厩舎は幕府の脱走諸隊が通った、水戸街道、市川流山間の道、戦闘があった鎌ヶ谷、市川、船橋から近く、事情を知らなくとも、維新の最中、略奪にあった可能性が最も考えやすい。前述の通り、一部の略奪は維新の時で、今井吉平は維新と武家社会に対する常識と江戸近郊の地理の知識に欠け、この点でも信憑性がない。1899年(明治32年)陸軍騎兵実施学校『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』に、日本到着は1863年(文久3年)とした後、鼓談話の一部と同様の記述があるが、散逸の時期が判る部分は割愛されている。その後、ナポレオン三世の馬についてまとめられているため、重複も含めて示す。「慶応年間若干頭は薩摩に牽入れたるは更に疑無きが如きも確証なし。明治4年中は大蔵省牧畜掛所管の雉子橋官邸に未だ数頭養畜せられ居りたるも後ち行く所を詳かにせず。星青毛牝「パリス」号(明治4年雉子橋官邸に養われしものの1疋)は一時駒場農学校に畜養せられ後ち上野動物園に移され明治27年に斃れたり本馬は嘗て流産せし後遂に受胎せず。」ほかに、若紫が明治初年に兵部省、後、宮内省に移された事と「アマドー」(馬術教師)の記述がある。兵部省は明治元年には存在せず、明治初年は明治の初め頃を指す。 1913年『鹿児島県畜産史上巻』に、「最近に於いて著名なるは15代将軍慶喜の慶応3年秋」の後、鼓談話とほぼ同じ記述があるが、「当路者」が「幕府当路の執政」と変更され、散逸の時期を示す部分は割愛されている。続けて、但し其の内若干頭は我薩藩に牽き入れられたること疑無けれど確証を得ず、とある。文面通りなら、他の資料との整合性からも、維新後に薩摩藩の関係者が私物化し、「若干」を薩摩に持ち帰った事になる。前述の明治政府による馬の持ち主への異例の配慮とよく一致し、鼓の談話で馬の散逸が名指しではないものの非難され、散逸が維新後と判る形になっている事とも矛盾しない。同じ『鹿児島県畜産史上巻』には、文久3年に当記事の馬が贈られ、薩摩の比志島牧に「鹿毛にて星及び白毛混れる洋種牡馬5頭を入れたるが」「牧中の牝馬と親和せずして一頭の産駒だに得ざりし」「該牝馬も漸く衰弱痩痒したりければ、御厨に引上げたりとなん」と記した後、『宮崎鹿児島両県産馬報告』とほぼ同じ内容を記述、諸書にある「若干は我薩摩に牽き入れられたりと云えば」この5疋ではないか、但し、口碑には英人医師ウルユスが船載せし馬匹と言うとの記述がある。比志島牧は慶応元年に廃止されたため、廃止前を指すなら、当記事の馬には該当しない。また、黒鹿毛等を入れても鹿毛の牡は3頭である。他のアラビア馬等との混同の可能性も否定できない。一方、小金牧から江戸に10頭の牡が移送されたのに対し、後に確認された牡馬が極端に少ない事とも矛盾せず、鹿児島に子孫を残さなかったため、疑いは確証がないという事とも合致する。散逸の責任を幕府に押しつける一方で、言わば自供した形になっている点でも信憑性はある。ウルユスは、1877年(明治10年)『7月23日 旧ウルユス館へ本日転移 軍団砲廠』等の資料から、実在し、維新後、鹿児島に長期間滞在した人物と確認できる。時期、場所、国籍、職業はウィリアム・ウィリスと一致する。『南部馬史』では、後述の広沢安任鼓談話とよく似た記述と、「蚕卵紙に報ゆるに我が有益にして殊に将軍の好めるを聞き之に贈答したる也」の記述がある。 1903年『下総御料牧場要覧』の表に所有するサラブレッドが牝10、牡20、計30で、輸入年度内訳として牝の欄に文久年間6、明治10〜13年計7の数字と、備考としてフランスから幕府への贈与の記述がある。総数と内訳は合わず、牡の欄が空欄のため、6頭は牝だけなのか牡牝合計なのか不明だが、30頭は1871年の文書と一致はする。同文書に基づいたなら、一致は当然である。
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