維新後の混乱と地歌の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 06:45 UTC 版)
明治時代になると、箏曲が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまっていたこと、西洋音楽や明清楽の音階の要素を箏の方が容易に取り入れることができること、恋愛や遊里色もある三味線に比べ、明朗、清新な時代精神に箏の音色が合致していると思われたことが、理由として挙げられる。また新政府により当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな変化であった。 こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地歌は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地歌が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地歌が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、富崎春昇、米川親敏、川瀬里子、福田栄香、金子花敏、中塩幸裕など九州、大阪をはじめ西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地歌単独での作曲は少なくなったが、地歌的な作品、地歌三味線を使った曲は宮城道雄をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。 また、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲(杵屋正邦の「三弦四重奏曲」、藤井凡大の「二種の三弦のためのソナタ」など)も作られている。三曲合奏は、胡弓の代わりに尺八を用いて、三弦、箏、尺八での合奏が多くなってゆき、現在ではこのような形式で演奏されることが多い。ただし胡弓入りの三曲合奏が廃れてしまったわけではなく、現在でも各地で行われている。
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