遊廓
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遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋(女郎屋)を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。遊郭とも[1][2]。
注釈
- ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [6]のだという。
出典
- ^ 岩波書店『広辞苑(第五版)』1998年。
- ^ 精選版 日本国語大辞典『遊郭・遊廓』 - コトバンク
- ^ “おはぐろ‐どぶ【▽御歯黒▽溝】”. Weblio. 2023年1月16日閲覧。
- ^ 遊郭『大百科事典. 第25巻』 平凡社, 1939年
- ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
- ^ 『日本売春史』中村三郎
- ^ 嶽本 新奈、「からゆき」という歴史事象創出の背景--「性的自立性」の多様性、p375-p376
- ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
- ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
- ^ 鶴田倉造『天草島原の乱とその前後』熊本県上天草市、上天草市史編纂委員会編、2005、p235-240
- ^ 井上光貞『年表日本歴史 4 安土桃山・江戸前期』筑摩書房、1984、p106-107
- ^ 天草郡記録
- ^ 万治元戌年より延享三年迄の人高覚
- ^ 沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、一九六八年、p337, p344
- ^ 藤本、p.341-432.
- ^ 中北薬品(株)『中北薬品二百五十年史』(1977年11月) 渋沢社史データベース
- ^ a b 新篇辻の華 上原栄子 時事通信出版局、2010年
- ^ 『沖縄の歓楽郷 辻の今昔』来和雀 久志助善, 1934年
- ^ 尾類の歴史『沖縄女性史』伊波普猷、小沢書店、1919年
- ^ a b 永井 2008, pp. 11–37.
- ^ a b c 東京人の堕落時代 夢野久作 1925年
- ^ 「廃娼運動推進の国民委員会が発会」『中外商業新報』1926年9月17日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.600 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「賀川豊彦、娼妓にストライキの呼びかけ」『東京朝日新聞』1926年10月2日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.601 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「貸座敷業者が廓清会、矯風会を威嚇」『東京朝日新聞』1926年9月15日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.600 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
[続きの解説]
「遊里」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は遊里へ足を向けることはめったに無い
- しきりに遊里に通う
- 遊里へ通う
- 遊里で,遊興を続ける
- 遊里の女の姿や風俗
- 遊客が遊里へ通う駕篭
- 江戸時代の遊里の言葉
- 遊里の団体客
- 吉原という遊里
- 鉄漿付けという,江戸時代の遊里の儀式
- 吉原という,江戸時代の遊里であった地域
- 江戸時代の遊里という,多くの遊女屋が集まっている区域特有の言葉
- 遊里の検番という事務所
- 遊里の言葉
- 遊里の生活になれる
- 遊里で遊女の世話をする若い女中
- 遊里での相手
- 常に遊里に出入りしている遊び人
- 遊里などで,各音の下に同列のカ行音を挟んで遣う言葉
- 引き手茶屋という,遊里の中にある茶屋
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