維新後の活躍
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帰国後の慶応4年(1868年)3月、目付となる。しかし、すでに幕府は大政奉還しており、鳥羽・伏見の戦いで敗れた将軍・徳川慶喜は謹慎していた。田辺は致仕した後、一時横浜で輸入商を営んでいたが、徳川家が駿府70万石へ移封(静岡藩)となったのを受け、明治2年(1869年)5月、沼津兵学校に招かれ教授に就任した。明治3年(1870年)正月には外務省から要請され、外務少丞となり、翌年の岩倉遣欧使節に一等書記官として随行、外交経験の浅い維新政府の幹部を補佐した。 明治7年(1874年)の台湾出兵の際にも、事件を収拾するために清へ渡って交渉した全権弁理大使大久保利通に随行し、両国間折衝を補佐するなど、明治初年の外交史の様々な局面で活躍した。 明治10年(1877年)には外務省大書記官、同12年(1879年)には清国公使館に在勤となり、一時は臨時代理公使も勤める。明治15年(1882年)9月に帰国し、翌年8月勅任官、9月19日には元老院議官を拝した。明治22年ごろには早逝した長男の法要の金にも困るほど家計不如意となる。1890年(明治23年)10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた。 晩年は娘一家と同居し、詩文や書を楽しむ一方、明治31年(1898年)には回顧談『幕末外交談』を出すなど、福地源一郎(桜痴)らとともに、往古の幕府の内情を知る語り部として知られた。明治45年(1912年)には、委員が長州藩と薩摩藩出身者ばかりと批判を受けた維新史料編纂会の追加委員に選ばれ、従三位・勲三等に叙せられた。大正4年(1915年)、東京にて没。享年85。墓は青山霊園にある。 能吏として活躍した一方、派手好みな性格でもあり、若いころより芸人が家にいりびたるなど、市川團十郎や三遊亭圓朝らを麹町(一番町)の自宅に招き、豪華な宴を催すなどしたため、没した時も財産は残らず、借金が残ったという。
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