維新後の活躍とは? わかりやすく解説

維新後の活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 13:39 UTC 版)

田辺太一」の記事における「維新後の活躍」の解説

帰国後の慶応4年1868年3月目付となる。しかし、すでに幕府大政奉還しており、鳥羽・伏見の戦い敗れた将軍徳川慶喜謹慎していた。田辺致仕した後、一時横浜輸入商営んでいたが、徳川家駿府70万石移封静岡藩となったのを受け、明治2年1869年5月沼津兵学校招かれ教授就任した明治3年1870年正月には外務省から要請され外務少丞となり、翌年岩倉遣欧使節一等書記官として随行外交経験の浅い維新政府幹部補佐した明治7年1874年)の台湾出兵の際にも、事件収拾するために清へ渡って交渉した全権弁理大使大久保利通随行し両国折衝補佐するなど、明治初年外交史様々な局面活躍した明治10年1877年)には外務省大書記官、同12年1879年)には清国公使館在勤となり、一時臨時代理公使勤める。明治15年1882年9月帰国し翌年8月勅任官9月19日には元老院議官拝した明治22年ごろには早逝した長男法要の金にも困るほど家計不如意となる。1890年明治23年10月20日元老院廃止され非職となり錦鶏間祗候仰せ付けられた。 晩年は娘一家同居し詩文や書を楽しむ一方明治31年1898年)には回顧談幕末外交談』を出すなど、福地源一郎痴)らとともに往古幕府内情を知る語り部として知られた。明治45年(1912年)には、委員長州藩薩摩藩出身者ばかりと批判受けた維新史料編纂会追加委員選ばれ従三位勲三等叙せられた。大正4年1915年)、東京にて没。享年85。墓は青山霊園にある。 能吏として活躍した一方派手好み性格でもあり、若いころより芸人が家にいりびたるなど、市川團十郎三遊亭圓朝らを麹町一番町)の自宅招き豪華な宴を催すなどしたため没した時も財産は残らず、借金残ったという。

※この「維新後の活躍」の解説は、「田辺太一」の解説の一部です。
「維新後の活躍」を含む「田辺太一」の記事については、「田辺太一」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「維新後の活躍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「維新後の活躍」の関連用語

維新後の活躍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



維新後の活躍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの田辺太一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS