維盛の死の謎とは? わかりやすく解説

維盛の死の謎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:17 UTC 版)

平維盛」の記事における「維盛の死の謎」の解説

寿永3年1184年2月維盛一ノ谷の戦い前後密かに陣中から逃亡する。これ以降文献により諸説があり、正式な死亡日とその死因不明である。 『玉葉』の2月19日条によると、「伝聞平氏帰住讃岐八島中略)又維盛三十艘許相卒指南海去了云々」とあり30艘ばかりを率いて南海向かったという。この時異母弟の忠房も同行していたという説もある。のちに高野山入って出家し熊野三山参詣して3月末、船で那智の沖の山成島渡り松の木清盛重盛と自らの名籍書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海入水自殺)したとされる『平家物語』)。 維盛入水の噂は都に届き親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいる。 「春の花の 色によそへし おもかげむなしき波の したにくちぬる」「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける」 —建礼門院右京大夫集 熊野伝承では一ノ谷の戦い後に戦線離脱し小森谷渓谷龍神村)に隠れ住んでいたという。そこで地元に住むお万という娘と恋仲になったが、壇ノ浦の戦い平家敗れたことを知り護摩壇山平家行く末占ったところ凶が出たため、維盛小森谷出て那智の海に入水したとされている。それを知ったお万は滝に身を投げたといわれており、小森谷渓谷には維盛屋敷跡と伝わる場所があるほか、お万白粉流した「白壺の滝」、紅を溶かした「赤壺の滝」、身を投げたとされるお万が淵」がある。 その一方『源平盛衰記』記され藤原長方日記『禅中記』の異説によれば維盛入水ではなく熊野参詣したのち都に上って後白河法皇助命乞い法皇頼朝交渉し頼朝維盛関東下向望んだため鎌倉下向する途中相模国の湯下宿病没したという。ただし『禅中記』のこの部分現存していない。『吉記』の寿永3年1184年4月の条に、維盛の弟忠房が密かに関東下向し、許され帰洛するという風聞記されているが忠房は同記に翌年12月鎌倉呼ばれた後に斬首されたと書かれており、矛盾するので前者の忠房は維盛誤りとみることができる。寿永3年2月一ノ谷の戦い前後屋島脱走し4月ごろ相模病死したとも考えられている。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}他には沖縄に伝わるおもろさうし第14巻で「雨降るなかに大和兵団運天港上陸した」という部分があり、これは一ノ谷後に離脱した維盛軍勢のことで、彼らが南走平家の祖ではないかという説がある。[要出典]

※この「維盛の死の謎」の解説は、「平維盛」の解説の一部です。
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