ギリシャ第一共和政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 15:51 UTC 版)
ギリシャ第一共和政(希: Α΄ Ἑλληνικὴ Δημοκρατία)は、オスマン帝国からギリシャ独立戦争の間、暫定的にギリシャ共和国に対して使われる呼称である。これは純粋に歴史学上の期間であり公式のものではなく、ギリシャ独立後、ギリシャ王国が成立する前に革命政府が組織上、そして民主的政府であることを強調するものであり、後の第二共和政、第三共和政と結びつけるためのものである。
注釈
- ^ ただし、オスマン帝国の配下であったというわけではなく、メフメト・アリは事実上エジプトの支配者であり、名目上、スルタンの配下という形にすぎず、この時、オスマン帝国スルタン、マフムト2世が同盟を結び、利権を分配するという約束の元、派兵してもらったというのが正しい[14]。
- ^ この仲裁案にはギリシャがイギリスの保護領になるという提案が含まれており、イギリス、フランス、ロシア三国はそれぞれ、ギリシャの窮状を自国の利益にするのではないかと危惧しており、抜け駆けは許されない状態であった[15]。
- ^ カポディストリアスは決して独裁主義者ではなく、元々はウィーン会議で危険視されるほどの自由主義者であった[17]。彼が憲法を停止、臨時政府を解散させたのは政治的に未熟なギリシャ人たちに憲法を与えることが危険な賭けであると判断しており、自らの意思伝達を確実に行い、ギリシャ人たちを成熟させようと考えたからであった[24]。そして独立戦争時の指導者たちを任用しなかったことにはただ単に『トルコ人に代わって政治を行う』だけであり、『キリスト教徒のトルコ人』と揶揄された人々がこれまでに得た利権を手放さず、また、西欧諸国には受け入れられないオスマン帝国下でオスマン帝国の体制で成長していたギリシャの将来に危惧を抱いているいう理由も存在した[25]。
- ^ 当時確定していたギリシャ領はペロポネソス半島のみであったが、ここには列強の思惑が絡んでおり、列強はギリシャをできる限り小国にしてしまおうと考えており、ギリシャ評議会『パンエリオン』にオスマン帝国との直接交渉する権限を与えていなかった。しかし『パンエリオン』は三国に領土の拡張を訴えながらも、コリントス湾北のオスマン帝国領へ派兵、これを占領して既成事実の形成を試みたりしていた[27]。[28]
- ^ この時、確定した国境はペロポネソス半島だけではなく、中央ギリシャ(ステレア・エラダ)のアルタ=ヴォロスまでで、カポディストリアスが主張したものとほぼ同じであったが、カポディストリアスがすでに暗殺された後の話である[29]。
- ^ ただし、不満を抱いていたのは独立戦争時の指導者たちなどで、一般市民の中では『ヤニスおじさん(ヤニスはイオアニスの愛称)』と呼ばれ、独立戦争時の苦難の日々から救い出してくれる人物として人気があった[29]。
- ^ 『ギリシアを知る辞典』ではカポディストリアスがロシアの外務次官を辞任、さらに直接使えていたロシア皇帝アレクサンドル1世が死去したため、これが払拭されたとして否定しており[30] 、『ギリシア史』ではカポディストリアスの親ロシア的背景と『ロシア派』を優遇しているということでロシアが優遇される可能性を警戒したとして肯定している[28] 。
- ^ イギリスの駐ギリシャ大使サー・エドマンド・ライアンズによる『本当に独立したギリシャなぞ馬鹿げたものだ。ギリシャはイギリスでもロシアでもあって、ギリシャがロシアであることが許されない限り、イギリスでなければならぬ[34]。
脚注
- ^ a b 周藤、村田(2000)、p.237.
- ^ 桜井(2005)、p.278.
- ^ a b 桜井(2005)、p.279.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.32.
- ^ a b c d 周藤、村田(2000)、p.238.
- ^ 桜井(2005)、p.280.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)pp.50-51.
- ^ 桜井(2005)、pp.279-280.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.33.
- ^ a b 桜井(2005)、p.282.
- ^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.34.
- ^ a b 桜井(2005)、p.283.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.240.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.35.
- ^ a b c d e リチャード・クロッグ、(2004)p.36.
- ^ a b 桜井(2005)、p.284.
- ^ a b 周藤、村田(2000)、p.243.
- ^ a b 桜井(2005)、p.285.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.53.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.37.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.243-245.
- ^ 桜井(2005)、p.286.
- ^ a b c リチャード・クロッグ、(2004)p.38.
- ^ 桜井(2005)、p.244.
- ^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.39.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.241.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.245.
- ^ a b c d 桜井(2005)、p.287.
- ^ a b c d 周藤、村田(2000)、p.246.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.242.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.247.
- ^ 桜井(2005)、p.288.
- ^ 桜井(2005)、p.289.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.62.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.54.
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- 2 ギリシャ第一共和政の概要
- 3 王制への道
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