エスニコス・ディハズモス
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国家大分裂 | |||||||
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第一次世界大戦中 | |||||||
![]() エレフテリオス・ヴェニゼロス(左)と国王コンスタンティノス1世(右) 1913年ごろ、国家大分裂の前の写真 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
コンスタンティノス1世 イオアニス・メタクサス |
エレフテリオス・ヴェニゼロス Pavlos Kountouriotis Panagiotis Danglis |
ギリシャの歴史 | |
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ギリシャ ポータル |
エスニコス・ディハズモス[1](ギリシャ語: Εθνικός Διχασμός、日本語で国家大分裂)とは、ギリシャの首相であったエレフセリオス・ヴェニゼロスと国王コンスタンティノス1世の間で、ギリシャが第一次世界大戦に参戦すべきかどうかという論争を中心とした一連の事件である。
解説
第一次世界大戦に際し、首相ヴェニゼロスは連合国側での参戦を主張したが、国王コンスタンティノス1世は中立を望んだ[2]。両者の溝は深まり、1915年にヴェニゼロスが首相を辞任すると、国王はディミトリオス・グナリスを首相に任命した[2]。連合国(イギリスとフランス)の支援を受けたヴェニゼロスは、1916年9月にアテネの政府に対抗すべくテッサロニキに政府を樹立した[2]。こうして、ひとつの国家にふたつの政府が併存する「国家大分裂(エスニコス・ディハズモス)」と呼ばれる状況が生まれた[2]。
1917年5月、国王がイギリスとフランスの圧力に屈したことで、国家大分裂はヴェニゼロス派の勝利に終わり、ギリシャは連合国側で第一次世界大戦に参戦することになった[3]。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還し、国王は王位を息子のアレクサンドロスに譲り、亡命した[3]。
この対立は、国内を2つの陣営に分け、ギリシャ社会に極めて深い亀裂を生じさせた。この軋轢の影響は1930年代の終わりまで残った。その後の小アジアの災害も、国家大分裂の影響が大きいと主張する研究者もいる。
脚注
- ^ 良樹, 佐藤、Sato, Yoshiki「ヴェニゼロスと近代ギリシャにおけるイレデンティズム : 英文による先行研究のレビュー」『同志社政策科学院生論集 = Doshisha policy and management review』第11巻、2022年2月25日、37–46頁、doi:10.14988/00028703。
- ^ a b c d 村田2012, p.165
- ^ a b 村田2012, p.166
参考文献
- Leon, GB (1974), Greece and the Great Powers 1914–17, Thessaloniki: Institute of Balkan Studies
- Leontaritis, George B. Greece and the First World War (1990) 587 pp
- Driault, Edouard. Greece and the First World War (1908–1923)
- Heinz A. Richter. Greece, 1915-1917, in the Russian archives
- Mazower, Mark. "The Messiah and the Bourgeoisie: Venizelos and Politics in Greece, 1909–1912," Historical Journal (1992) 35#4 pp. 885–904 in JSTOR
- 村田奈々子『物語近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで- 』(2012年2月、中公新書)
外部リンク
- The Great War – Romanian & Greek Weapons of World War 1 feat. C&Rsenal
- The Great War – Greek Rifles and Pistols of World War 1 feat. C&Rsenal
- The Great War – A Crucial Test For Unity – Greece in WW1 I THE GREAT WAR Special
- The Great War – King Constantine I of Greece
- Serbia Is Invaded Once Again – The Entente Lands in Greece I THE GREAT WAR Week 63
- Nivelle's Spring Offensive – Royal Conspiracy In Greece I THE GREAT WAR Week 131
- The Merchant of Death – Basil Zaharoff I WHO DID WHAT IN WW1? – The Great War
- Russia's New Offensive – The Russian Women's Battalion of Death I THE GREAT WAR Week 153 – The Great War
エスニコス・ディハズモス(国家分裂)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 16:35 UTC 版)
「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の記事における「エスニコス・ディハズモス(国家分裂)」の解説
「エスニコス・ディハズモス」も参照 第一次世界大戦勃発時、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の妹を娶り、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の軍事力を信じていたコンスタンディノス1世とイギリス、フランスに敬意を払っていたヴェニゼロスとの間には確執が徐々に生じていた。戦争が勃発すると、ヴェニゼロスは連合側に参加して戦うべきと考え、イギリス外相エドワード・グレイに申し出ていた。その一方で、中央同盟側に参加したいがイギリス海軍の前にギリシャが無力であることをよく知っていたコンスタンディノス1世はあくまでも中立を維持すべきと主張していた。 1914年11月、オスマン帝国が参加するとブルガリアを参戦させたくなかったイギリスは1915年1月にカヴァラ、ドラマ、セレスをブルガリアへ移譲、そのかわりに北部イピルス地方と小アジア沿岸地域の重要な地域をギリシャに移譲するという曖昧な提案を行った。ヴェニゼロスは英仏軍のテッサロニキ上陸とルーマニアの参戦とブルガリアの挟撃を連合軍に求めた上でこれに従うべきであるとしたが、国王と軍の相談役はこの約束が確実ではないということで渋っていた。そしてロシアの抗議とルーマニアが行動を起こす気がないことでヴェニゼロスは要求を取り下げたが、参戦することをあきらめることはなかった。2月にダーダネルス海峡においてガリポリの戦いが勃発するとヴェニセロスはこれに参加することを強く説いたため、コンスタンディノス1世は参加を一度は認めたが、軍参謀イオアニス・メタクサスがこれに抗議して辞任すると参加を拒否したため、国王の方針変更に直面したヴェニゼロスは1915年3月6日、首相を辞任した。 1915年6月に選挙が行われるとヴェニゼロス派が議会の大勢を占めたため、ヴェニゼロスは職務に復帰した。ヴェニゼロスはセルビア、及びブルガリアに互いに譲歩するように説得したが、国王コンスタンディノスがドイツに対してギリシャが中立を保持することを保証したと考えられていたことや連合国がセルビア、ギリシャにブルガリアへ譲歩するよう圧力を強めていたことからヴェニゼロスの説得は失敗に終わった。9月にブルガリアが総動員を仕掛けるとギリシャも総動員を行うように国王に要求したが、国王は拒否した。これに対しヴェニゼロスは辞職を仄めかすしたため、国王も渋々同意したが、攻撃を仕掛ける気は毛頭なかった。しかし、ヴェニゼロスはギリシャにセルビア救援義務があるとして、イギリス、フランスを招いた上でさらに国王の承認を得た上でテッサロニキに軍を派遣したが、10月にブルガリアが参戦しても国王は攻撃することを認めず、さらには英仏軍がテッサロニキに上陸すると、ヴェニゼロスを罷免した。 12月に選挙が行われたが、ヴェニゼロスは国王の憲法上の権利濫用を非難して選挙を放棄した。そのため、ヴェニゼロス派は前回の選挙の4分の1しか票を得る事ができなかった。一方、協商国と国王の率いる政府との関係も悪化しはじめ、1915年10月にテッサロニキに協商国が兵を置いてもギリシャは中立、翌年1月にコルフ島を占領しても中立のままであった。そしてセルビア軍の行軍を拒み、ブルガリア軍へマケドニアのルペルを引き渡したことでさらに関係は悪化した。 8月、テッサロニキにおいてヴェニゼロスを支持していた陸軍将校らがクーデターを起こした。これには協商国派組織『エスニキ・アミナ(民族防衛)』の後ろ盾があり、ヴェニゼロスはここに臨時政府を設立、ギリシャは事実上分裂した。協商国はこの行為を歓迎はしたが、公認はせずに国王の方への圧力を高めてゆく手法を取った。12月にイギリス・フランス両軍はピレウス、アテネへ上陸、さらに圧力を高めた上で、ヴェニゼロス率いる臨時政府を承認、国王率いる政府に対して賠償金を求めた。そして6月国王コンスタンディノス1世に対して立憲君主としての権利侵害に対して国外退去を求めた。国王コンスタンディノス1世はこれに応じて国外へ退去、その後をアレクサンドロスが継いだ。 この出来事で分裂状態であった表面上はギリシャは統一されヴェニゼロスが再び首相に就任したが、国王に忠誠を誓っていた南ルメリアやペロポネソスではヴェニゼロス派が粛清されるなどギリシャは未だ、分裂したままであった。ヴェニゼロスは国会を再召集、1915年6月の議席数が正しいものであり、ヴェニゼロス派が放棄した12月の選挙は無効であると主張、このため新たに招集された議会はヴェニゼロスに大量の信任票を投じた。 首相に就任したヴェニゼロスは国王派の追放、解雇を行い、その手は軍部にまで及んだ。ヴェニゼロスは1918年9月、マケドニア戦線において協商国の攻勢が始まるとこれに軍を参加させ戦果を挙げた。この戦いで西部戦線の崩壊が始まり、11月11日休戦となった。ヴェニゼロスはパリ講和会議にギリシャ代表団長として参加、協商国に協力してきたことを盛んにアピールした。そしてスミルナ (現在のイズミル) の要求を行い、コンスタンティノープルの国際管理に賛成、そして東西テッサリア地方までを要求した。さらにドデカネス諸島、及びイピルス北部の領土的主張も行った。1919年5月15日、ギリシャ軍はイタリアの分遣隊がスミルナに向ったことを理由にイギリス、フランス、アメリカの承認の元、スミルナを占領、ギリシャ人をトルコ軍からの報復から守ることを理由に駐屯した。 1920年8月、ギリシャ、オスマン帝国間でセーヴル条約が結ばれた。この条約ではスミルナの管理権が五年継続され、その後、国際連盟管理下で住民による投票が行われ、この地域の帰属が決定されることが明記された。ヴェニゼロスはスミルナに小アジアのギリシャ人を集めれば将来、住民投票に勝てるという確信を持ってこれを迎えた。しかし条約調印2か月後、国王アレクサンドロス1世が急死するとその雲行きは怪しくなった。1920年11月の選挙では元国王コンスタンディノスとヴェニゼロスの対立が表面化し、反ヴェニゼロス派が元国王支持を行ったことでヴェニゼロス派は大敗、ヴェニゼロス自身も落選するという憂き目となった。 選挙に勝利した元国王派はイギリス、フランス、イタリアの反対があったにも関わらず国民投票を行い、国王の復帰を決定、コンスタンディノスは再び王位に就き、ヴェニゼロス派は粛清された。選挙運動中、国王派はヴェニゼロスの拡大主義に反対を主張してきたが、いざ国政を握るとヴェニゼロスの後を継いで拡大主義を続けることは明白となった。しかし、ムスタファ・ケマル率いるトルコの前にギリシャ軍は惨敗、スミルナも陥落し、『メガリ・イデア』は終りを告げた。 小アジアにおけるギリシャ軍は撃破され、小アジアに暮していたギリシャ人らは難民と化しエーゲ海の島々やギリシャ本土へ逃亡した。その中、ヴェニゼロス派の陸軍少佐ニコラオス・プラスティラスを中心とするグループが権力を掌握することに成功した。この出来事のために国王コンスタンディノスは退位し、長男ゲオルギオスが即位し、文民政府が一応建てられたが、結局権力は革命委員会が握っていた。そして、ギリシャ国内では敗北の混乱からスケープゴートを選ばざるを得なかった。このため、小アジアの司令官ハジアネスティス将軍を初めとして8人の政治家、兵士らが軍事法廷で裁かれ、6名が銃殺刑を宣告された。しかし、この裁判はヴェニゼロス派とその対立者との溝を広げるばかりであった。そして1924年4月、ヴェニゼロス派は対立の深まる国王派との対決に決着をつけるべく国民投票を行い、王政を廃止、共和国化(ギリシャ第二共和政)されることが決定されたが、この結果をもってしても国王派とヴェニゼロス派との対決が止むことはなく、戦間期を通じて対立は続く。 首相に復帰したヴェニゼロスは新たにローザンヌで開かれた講和会議でギリシャの立場を主張、外交手腕を発揮しようと努力していた。が、セーヴル条約で得た領土の多くの放棄と、ギリシャ・トルコ間の敵対関係を緩和するためにギリシャ・トルコ間での住民交換を行うことがローザンヌ条約として決定された。この住民交換でギリシャ本土へ移動した難民たちはヴェニゼロスの支持者となった。 1929年、世界恐慌が始まるとギリシャにもその影響が及び1930年、1931年と財政危機を起こした。そのために翌年、ヴェニゼロスはイギリス・フランス・イタリアを訪問して融資を申し込んだが、すでに国家予算の43%が対外責務によって占められているギリシャに対して融資する国はなかった。そして翌年、金本位制から離脱すると4月には責務不履行となり、ギリシャ国内に経済危機を発生するに至った。ヴェニゼロスは近代的ブルジョワ社会に変貌させることを目指していたが、この出来事によりヴェニゼロスを支持していた企業家らは離反して行った。さらに反ヴェニゼロス派はこの経済危機の発生により、活動を再開、ヴェニゼロスと対立する人民党党首パナヨティス・ツァルダリスはヴェニゼロスを批判、さらに反ヴェニゼロス派による中傷キャンペーンまでが行われた。 1933年3月、選挙が行われると人民党が勝利した。そのためプラスティラスは反ヴェニゼロス派による粛清を恐れ、クーデターを再び起こそうとしたがこれに失敗、そのため6月、会食を終えたヴェニゼロスを凶弾が襲った。幸いヴェニゼロスは無傷であったが、随行員一名が死亡、運転手と妻が負傷した。この事件は人民党の関与が疑われた。1935年3月には再びクーデターが試みられ、これにはヴェニゼロスも関係していたが失敗に終り、ヴェニゼロスはパリに亡命した。 ヴェニゼロス亡命後もギリシャ国内ではヴェニゼロス派と王政復古派との争いは続いた。1935年10月には王政復古が議会で宣言され、選挙によって王政復古が決定された。ゲオルギオス2世は帰国し、ヴェニゼロスを含めたヴェニゼロス派の恩赦を決定した。そしてヴェニゼロスはギリシャが団結するために国王と協力するべきであることを提言している。恩赦を得たヴェニゼロスはクレタ島へ戻ることを熱望した。しかし、ギリシャ国内ではまだ混乱が続いており、ヴェニゼロスの帰国によりさらに拍車がかかることが想像された。一方で、ヴェニゼロスはドイツでナチスが政権を奪取したことで大規模な戦争が起ることを懸念しており、そのためにもギリシャ国内の団結を望んでいた。結局、彼の望みは叶わず1936年3月18日、パリにて没した。死去後、ヴェニゼロスの亡骸はアテネへ運ばれることを拒否され、結局、ヴェニゼロスの政治的原点であるクレタ島のアクロティリに埋葬された。
※この「エスニコス・ディハズモス(国家分裂)」の解説は、「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の解説の一部です。
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