対立・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:40 UTC 版)
家康は遠江浜松に移ったが、築山殿は後継ぎの信康とともに岡崎にとどまった。徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、天正5年(1577年)には熊姫を産んだ。しかし、徳姫がいつまでたっても信康の息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた(『系図纂要』)。 天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と野中重政によって自害をせまられ、自害を拒んだ事から独断によって首を切られて殺害された。検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられた。信康は9月15日に二俣城で自害した。 遺体は浜松市中区広沢の高松山西来禅院に葬られた。首塚が岡崎市の祐傳寺、後に天保年間の頃八柱神社に移された。法名は西来院殿政岩秀貞大姉。
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