スペイン共産党員期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 15:53 UTC 版)
「ホセ・ディアス・ラモス」の記事における「スペイン共産党員期」の解説
1932年、スペイン共産党は大幅な進路転換を実施。コミンテルンの掲げる「労働者農民政府」方針を放棄して「共和国の保持」を新たに掲げた。ディアスを含めた5人が前スペイン共産党書記長のホセ・ブレヨス(英語版)に代わって党の指導者になり、1932年3月にセビリャで開かれたスペイン共産党会議で彼はスペイン共産党中央委員会のメンバーとなった。同年9月にはスペイン共産党政治局にも加わり、それから間もなく書記長に就任した。1935年に彼とドロレス・イバルリはコミンテルン第7回大会にスペイン共産党代表として参加、ゲオルギ・ディミトロフの提唱する反ファシズム統一戦線論を現地で聴いた。 スペイン人民戦線内閣へのスペイン共産党の参画とスペイン内戦の開幕に際して、ディアスはスペイン第二共和国の行政府に籍を置くことはせず、スペイン共産党の党内政治に従事した。彼の焦点はフランシスコ・フランコ率いる反乱軍と対峙する共和国軍の軍事的勝利に如何にして貢献するかにあった。また現バスク州で活動していたフアン・アスティガラビア(英語版)と、彼の率いたバスク共産党 (スペイン共産党の地域支部の一つ) に対する痛烈な批判も残されている。これはアスティガラビアがバスク・ナショナリズムに対して融和的であったことが原因であるとみられている。
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