スペイン側の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:41 UTC 版)
「ルイス・クラーク探検隊」の記事における「スペイン側の反応」の解説
当時北アメリカ大陸に散在していたスペイン人は、アメリカが西部まで手を伸ばすことには反対であった。東側沿岸部に集中していた合衆国の手が太平洋沿岸まで及べば、その影響力は強大になることが必至だったためである。 探検隊が結成される直前の1803年12月8日、ルイスはルイジアナ北方の総督であったスペイン人、カルロス・デホルト・ドラッサスと面会した。その当時周辺は正式にはフランスによって統治されていなかったため、依然としてスペイン人が統治したままであった。ドラッサスはフランスが正式に合衆国側に領土を譲渡するまで、ルイスと探検隊がミズーリ川周辺を通行するのを拒んだ。そこでルイスは年内にミズーリ川へ向かうのは時期的にも遅く、また旅の準備が必要であることから、セントルイスで越冬することを提案した。しかしルイスが探検隊の目的は、単純にミズーリ川周辺域の科学的調査のためであると主張したにもかかわらず、ドラッサスは上層部へルイスはかなり有能な人物であり、太平洋まで進行することは疑う余地がなく、合衆国の西部進行はスペイン側にとって脅威となるだろうと報告した。 その後オハイオ州シンシナティに滞在していた際、ルイスはジェファーソンに宛て、当初サンタフェへ向かうこと計画していたと書いている。ところがジェファーソンは、ルイス率いる探検隊はミズーリ川を遡るよりセントルイスで冬を待った方がよいと考えていた。これはルイスがセントルイスで価値ある情報を入手し、且つそこにある軍の備品から必需品を引き出すことができると考えていたためだ。さらにジェファーソンはスペイン人がどれ程彼らの金銀鉱山に敏感であるか、また先方がルイスにサンタフェへ行かぬよう直接命令を発するだろうことも知っていた。そのためジェファーソンはこのルイスの判断に疑問を呈していた。しかしジェファーソンの心配むなしく、既にルイスはサンタフェへ向かうため時間を費やすよりも、春までに探検隊の出発の準備を整えるため、冬期間にセントルイスへ滞在して充分な備えを行うことで決定を下していた。 この決定が下された事実には様々な政治的理由があった。一つには、探検隊がスペインの領土外で滞在することが必須だったことが上げられる。ジェファーソンはルイスに、当時敵対していたスペインの領土には進行しないよう告げていた。より高緯度に留まることで、探検隊はスペインの領土を渡るのを避けられたのである。 この時代は1800年のサン・イルデフォンソ条約で、スペインがフランスにルイジアナを割譲する状況下に置かれていた。これはナポレオンがカナダとアメリカ合衆国を征服するため、ルイジアナを一つの拠点とする目的で領土割譲をスペインに要求したものであった。またスペイン側は、当時東側に集中していた合衆国と西側のメキシコ北方にある多くの鉱山との間を遠ざける緩衝地帯として、北アメリカ大陸中央部を占めるルイジアナをできるだけ占領し続けておきたい意図があった。 ルイス・クラーク探検隊が出発した後、探検隊の計画を阻むためにスペインは少なくとも4つの特別任務隊を派遣した。探検隊がショーショーニー族の野営地に滞在している頃、隊はスペイン人の入植地から10日程の距離まで近づいていることは知らされていた。この警告はルイスとクラークがスペイン人から離れる手助けとなったが、探検隊が帰還するまで、彼らはスペイン人が探検隊の進行を阻止する目的で隊を送っていたことは知らなかった。 スペイン側がこうした隊を送ったのは、スペインのスパイとなった合衆国の反逆者から情報を得る目的もあった。例として、将軍ジェームス・ウィルキンソンはアメリカ合衆国陸軍の指揮官であったと同時に、スペイン政府からも雇われていた。1804年3月、彼はマドリードへ通告を送り、ルイス・クラーク探検隊の目的は太平洋までを旅することであるとスペイン政府へ伝達していた。
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