曽我部道夫
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曽我部 道夫(そがべ みちお、1849年1月28日(嘉永2年1月5日)[1] - 1923年(大正12年)3月13日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、衆議院議員。
経歴
阿波国美馬郡半田村(現・徳島県美馬郡つるぎ町)で生まれる[1]。1874年に愛媛県五等出仕となり、高知県少属・中属、徳島県学務課長・衛生課長・阿波郡長・麻植郡長を経て[1]、1883年、東京府一等属となる。1884年3月、秋田県少書記官に転じ、以後、群馬県書記官、宮城県書記官、北海道庁書記官などを歴任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で徳島県第五区に中央交渉部から出馬し当選した。
1893年3月、岐阜県知事に就任。県会と対立し、1894年12月に県会解散を行った。1895年3月、島根県知事に転じ、殖産十年計画を推進し、1897年4月に退任した。1898年5月、福岡県知事に就任し、1899年4月まで在任し退官した。
栄典
- 位階
- 勲章等
著作
- 『煙里遺稿』曽我部光晴、1924年。
脚注
- ^ a b c 『岐阜県議会史 第1巻』岐阜県議会、1980年、p.469。
- ^ 『官報』第2326号「叙任及辞令」1891年4月6日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第3555号「彙報 - 褒賞」1895年5月9日。
- ^ 『官報』第3590号「彙報 - 陸海軍 - 日本赤十字社録事」1895年6月19日。
参考文献
- 曽我部道夫のページへのリンク