籠手田安定とは? わかりやすく解説

籠手田安定


籠手田安定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 21:31 UTC 版)

籠手田 安定
生年月日 1840年4月23日
出生地 肥前国松浦郡平戸村
没年月日 (1899-03-30) 1899年3月30日(58歳没)
称号 従三位
勲一等瑞宝章
男爵





貴族院議員(勅選)
在任期間 1897年12月23日[1] - 1899年4月1日[2]
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籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日天保11年3月21日) - 1899年明治32年)3月30日)は、平戸藩士剣術家政治家。旧名は桑田源之丞

滋賀県知事元老院議官島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任した。心形刀流一刀正伝無刀流免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。

生涯

生い立ち

平戸藩家臣桑田安親の長男として肥前国松浦郡平戸村(現・長崎県平戸市)に生まれる。先祖に戦国武将籠手田安昌籠手田安経籠手田安一がいる。

幕末期

平戸藩(松浦静山)伝の心形刀流剣術を学び、免許皆伝を得る。幕末には藩探索方に任じられ京都情報収集を行う。その傍ら直心影流戸田一心斎(栄之助)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。 文久元年に藩主松浦詮の近習となり、慶応3年に入京。京都市内の警衛に従事し、慶応4年には天皇の大阪親征に供奉した[3]

明治期

明治に入り、約300年ぶりに籠手田姓に復す。松田道之の後を受け第2代滋賀県令に就任。大津で再会した高山峰三郎を滋賀県警察官に採用した。

1881年(明治14年)1月、無刀流山岡鉄舟に入門し、高弟となる。1882年(明治15年)7月16日、京都体育場で撃剣大会が開かれ、大蔵卿松方正義京都府知事北垣国道岡山県令高崎五六らが臨場。籠手田も参加し、渡辺篤と対戦した。渡辺は当時素性を隠していたが、元京都見廻組組員で、晩年に坂本龍馬暗殺を証言した人物である。

1883年(明治16年)11月、東京での地方官会議に出席する際、高山峰三郎ら関西の剣客約10名を引き連れ警視庁に試合を挑む。高山は警視庁選り抜きの撃剣世話掛36名を連破した。この出来事は明治剣道史の一大事件として知られる。

1885年(明治18年)6月14日、宮内省済寧館剣槍術大会に臨席する。

1887年(明治20年)、山岡鉄舟の武士道講話を筆録したとされる。この記録をもとに安部正人が編纂した書籍が、1902年(明治35年)、『武士道』として公刊されている[注 1]

1891年(明治24年)、自身の撃剣の門人を無試験で看守に採用したことが問題視され、同年11月25日の新潟通常県会で、「看守はあえて武者修行なる者にあらず。囚徒を監督するものなるを、おのれが撃剣好きなるゆえ採用せしなどとは、地方税を濫費せしいものというべし」と議員から糾弾された。また、同月20日付の新潟新聞においても、「自ら法を作て自ら之を破る者は我新潟県知事なり」と批判された[4]

このころ、京都の剣術家小関教政父子を新潟へ招き庇護し、教政に心形刀流と無刀流の免許皆伝を与えた。教政を引き連れ旧新発田藩剣術師範今井常固の道場を破る。強い剣客を配下に従えたびたび道場破りを行ったことは籠手田の悪癖であったといわれる。1897年(明治30年)、三女崇子と教政が結婚した(籠手田の死後、離婚している)。

1899年(明治32年)、死去。

1902年(明治35年)、滋賀県政の功績を讃え、天台寺門宗総本山園城寺境内に「籠手田安定頌徳碑」が建立された。

官職

栄典・受章・受賞

位階
勲章等

神社

  • 滋賀県令時代に多くの治水事業に携わったことから高く評価され、同県長浜市の水引神社には肖像が安置されている[14]

親族

襲爵した息子の籠手田龍(1876-1934)は陸軍砲兵大佐[15]。次代の籠手田隆(1911年生まれ)はその長男で、慶応大学卒業後、企書院に勤務した[16]。龍の娘・敏子(1912年生まれ)は台湾総督府判官だった鉅鹿義明と1935年に結婚し、1976年に『県令籠手田安定』を上梓した[17]

脚注

注釈

  1. ^ 安部正人編『武士道』 - 国立国会図書館(光融館、1902年)。これを勝部真長が再編したものが『山岡鉄舟の武士道』(角川書店、1999年)として刊行されている。ただし、本書については安部正人による偽書とする説がある(アンシン アナトーリー「山岡鉄舟の随筆と講話記録について」『千葉大学日本文化論叢』第7号、2006年 http://www.tesshu.info/abe.html )。

出典

  1. ^ 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、10頁。
  3. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、537頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 月刊剣道日本』2003年1月号150-151頁、スキージャーナル
  5. ^ 『太政官日誌』明治6年、第154号
  6. ^ 『官報』第366号「叙任及辞令」1884年9月15日。
  7. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  8. ^ 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
  9. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  10. ^ 『官報』第3003号「叙任及辞令」1893年7月4日。
  11. ^ 『官報』第4350号、明治31年1月4日。
  12. ^ 『官報』第4722号「叙任及辞令」1899年4月1日。
  13. ^ 『官報』第4723号「叙任及辞令」1899年4月4日。
  14. ^ 神社に祀られた県令―籠手田安定の治水事業―”. 滋賀県ホームページ (2017年4月6日). 2024年4月4日閲覧。
  15. ^ 籠手田龍 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  16. ^ 籠手田隆『人事興信録第12版(昭和14年) 上』
  17. ^ 『県令籠手田安定』鉅鹿敏子著、p384

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
籠手田(安定)家初代
1899年
次代
籠手田龍



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