堀田鼎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/10 17:39 UTC 版)

堀田 鼎(ほった かなえ、1883年〈明治16年〉9月13日[1] - 1942年〈昭和17年〉2月24日[2])は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府交通局総長。
経歴
福島県安積郡河内村(河内村大字河内、逢瀬村を経て現郡山市逢瀬町河内)[1][3]で堀田喜左衛門の五男として生まれる[4][5]。第二高等学校を経て1908年(明治41年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業[1]。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格[6]。1912年(大正元年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業[1]。同年、内務省に入り土木局属となる[6]。
1917年(大正6年)山口県内務部土木課長に就任[3]。以後、東京府・千葉県の各理事官などを歴任[3]。1921年(大正10年)ジュネーヴで開催された第3回国際労働総会に政府代表随員として出席[1][3]。1922年(大正11年)静岡県警察部長となる[1][3]。以後、茨城県内務部長、和歌山県書記官・内務部長、愛知県書記官・内務部長などを務めた[3]。
1928年(昭和3年)6月、滋賀県知事に就任[7]。以後、群馬県知事、千葉県知事を歴任[7]。1932年(昭和7年)3月、台湾総督府に転じ交通局総長となる[8]。1936年(昭和11年)10月に辞任し退官した[6][8]。墓所は多磨霊園。
親族
脚注
参考文献
- 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 白勢黎吉 |
![]() 第7代:1932 - 1936 |
次代 泊武治 |
- 堀田鼎のページへのリンク