無刀流剣道
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その後竹内の私塾同舟社の塾生となり、竹内の知人山岡鉄舟(一刀正伝無刀流開祖)に入門。厳しい剣術稽古で鍛えられ身体がたくましくなり、立ち切りをも達成する。 明治22年(1889年)4月、島根県知事で鉄舟の高弟の籠手田安定の招きで島根県御用掛となり、籠手田邸の道場興雲館の助教を務める。このころ松江市において、旧松江藩家老柳多家の長女律子と結婚し婿養子となって柳多姓となり、同家の家督を継ぐ。 明治25年(1892年)11月1日、島根県尋常中学校に赴任し、5年間勤務。その後岐阜県岐阜中学校に転じて17年間勤務する。大正3年(1914年)4月、東北帝国大学総長・北条時敬の招きで同大学剣道部師範に就任。 晩年も絵画を好み、しばしば養女の浅野サタ子をともなってスケッチにでかけた。
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