ことう‐ぶんじろう〔‐ブンジラウ〕【小藤文次郎】
小藤文次郎
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小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日〔1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年〕3月8日)は、日本の地球科学者。地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く活躍した。ドイツ地理学を日本に導入し[1]日本の地質学や地形学の揺籃期に活躍・貢献をした[2][3]。また、多くの学生を育てた[4]。
- ^ 由村百代「小藤文次郎によるドイツ地理学の導入:「地学雑誌発行ニ付地理学ノ意義ニ解釈ヲ下ス」とその原典」『地理学評論』第51巻第5号、日本地理学会、1978年、406-415頁、doi:10.4157/grj.51.406、ISSN 0016-7444、NAID 130003567782。
- ^ 小藤文次郎「琉球弧嶋の地質搆造」『地質学雑誌』第5巻第49号、日本地質学会、1897年、1-12頁、doi:10.5575/geosoc.5.1、ISSN 0016-7630、NAID 110003016674。
- ^ 矢島道子「小藤文次郎 : 日本の地質学・岩石学の父(地学者列伝)」『地球科学』第61巻第2号、地学団体研究会、2007年、155-159頁、doi:10.15080/agcjchikyukagaku.61.2_155、ISSN 0366-6611、NAID 110006242189。
- ^ 米倉伸之「日本の地形研究史」/ 米倉伸之・貝塚爽平・野上道男・鎮西清高編著『日本の地形1 総説』東京大学出版会 2001年 33ページ
- ^ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ]』 原書房 2011年 71ページ
- ^ 松田時彦「濃尾地震が大地に遺したもの : 地震断層と小藤文次郎の断層原因論,その後」『地震ジャーナル』第51号、地震予知総合研究振興会、2011年6月、22-28頁、ISSN 0912-5779、NAID 40019152870。
- ^ KOTO B.「On the cause of the Great earthquake in central Japan, 1891.」『J. Sci. Coll. Imp. Univ.(帝國大學紀要. 理科)』第5巻、College of Science, Imperial University、1893年、295-353頁、doi:10.15083/00037587、NAID 10007193278。
- ^ 岡田篤正「濃尾地震断層系根尾谷断層」『活断層研究』第1987巻第4号、日本活断層学会、1987年、71-90頁、doi:10.11462/afr1985.1987.4_71、ISSN 0918-1024、NAID 130003355453。
- ^ 榎本祐嗣「小藤論文の濃尾地震根尾谷断層写真について」(PDF)『歴史地震』第21号、歴史地震研究会、2006年、219-222頁、2021年7月18日閲覧。
- ^ 渡邊武男「小藤石(Kotoite)に就て」『地質學雜誌』第48巻第573号、日本地質学会、1941年6月、283頁、ISSN 00167630、NAID 110003016549。
- ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。
- ^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
- ^ 『官報』第2391号「叙任及辞令」1920年7月21日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年、58頁。人事興信所編『人事興信録』第10版 上、1934年、コ61頁。
- 1 小藤文次郎とは
- 2 小藤文次郎の概要
- 3 経歴
- 4 論文
- 5 参考文献
小藤文次郎
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東京大学地質学科第一回卒業生の小藤文次郎は、地理学に特別の関心を示し、1885年(明治18年)ドイツ留学から帰国して、理科大学教授となり、地質学の研究・教育に従事すると共に、1889年(明治22年)地学雑誌を創刊すると、地理学について十数回にわたって講義を執筆した。彼の論稿は、従来の東洋的な内務省地理局風の地理学ではなく、ドイツで見て学びそして身に付けてきた地理学だった。これは、日本語で西洋風地理学の体系を導入した第一歩といえる。明治10-20年代の小藤らの地理学は地学(Erdkunde)としてこれをとらえた。小藤らは、地学は土地の学(geo-logy)で地質学・鉱物学・地理学を含んだものであるとした。他方で、幕末以来、地理学は地球星学と地文学と邦制地理から構成されるというのが通説であり、小藤らの地学者の地理学も地球星学・地文学の自然地理的なものと、邦制地理の人文的なものとを、何かしらの限定も理論もなく並列して顧みないといった矛盾をもっていた。しかし、地理学の中で学問として最も早く定立していったのは、ヨーロッパの場合同様、自然科学的側面、特に地質・地体構造から地貌地形に関する研究記述であった。
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