作戦経過
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熱河作戦が発動される前においてもいくつかの衝突事件が起きていた。日本軍錦州部隊の側面を攻撃しようと熱河省に侵入した中国軍第十六旅及び第十九旅に対し日本軍は1月8日に爆撃を行った。これについて日本陸軍は国防の立場から当然とし、出先軍部に一任することを表明している。山海関北方13kmにある九門は張学良が軍隊と補給を熱河に送り込んでいた場所であったため、1月10日早朝、日本軍はこれを攻撃して占拠した。開魯には張学良の別働隊司令部が置かれ、通遼が熱河軍と別働隊に包囲されて圧迫されるに至り日本軍は1月15日にその司令部に爆撃を行ったが、この時開魯では同士打ちによる市街戦が行われている最中でもあり、死傷者は数百名に及んだ。空爆は16日、22日、23日にも行われた。 1933年2月9日、張学良は熱河攻略を決意し、南京政府も加わった多数の正規軍を熱河に侵入させたため、満州国は2月18日に熱河討伐を決定し、張景恵を総司令に任命。同日関東軍も日満共同防衛の立場から熱河征討の声明を発表した。2月21日、満州国政府は「張学良正規軍、義勇軍が満州国内の熱河省に侵入して要地の占拠、住民からの略奪、婦女子への暴行という不法行為を繰り返して満州国の治安を混乱させ、国の独立性を危うくしている」としてその不法行為を詰問した。同時に「不逞分子」の24時間以内の国外退去を要求し、これに応じない場合には断固実力をもって掃蕩を行うとの最後通牒を翌日発することも決定した。翌22日には日本政府も南京政府に対して熱河省における反満抗日行為の中止と中国軍の即時撤退を要求し、応じない場合には「自由行動」を取ることを宣言した。 作戦開始の時点でも蔣介石の中央軍は北部に移動せず、行動していたのはすべて中国北部の将領たちで熱河省に10万、関内に10万の兵力を有していると推定され、一方日本軍はソ連が1929年の中ソ紛争で行ったように飛行機の支援により大きな抵抗は受けないことを期待していた。日本軍の上層部は「満州国の国境部分は中国側の一定距離までは中国軍を掃蕩しなくてはならず、中国側が飛行機を使用するならその根拠地を爆破して作戦の根拠を粉砕することは当然であり、張学良軍あるいは熱河敗残兵が平津地方にある日本人居留民の生命財産を脅かすなら現地の利害関係に配慮して現地保護の必要がある」と説明している。 2月22日、熱河省にあった中国義勇軍第四師団司令官の劉桂堂とその部下1万5千名は満州国への帰属を申し出るとともに中国正規軍に対して作戦を開始した。この動きに応じて熱河民衆も湯玉麟政権打倒の軍を組織し、他の地域でも中国側軍隊から湯玉麟打倒に参加を表明するものが続いた。 日満連合軍は協力して熱河省に進攻し、2月24日には熱河省の北の都である開魯を占拠、3月4日には熱河の省都承徳に入城した。同日関東軍司令官武藤信義は「長城ノ重要関門ヲ確保シテ北支方面ニ対シ戦備ヲ整ヘ」るよう指令した。張学良は蔣介石との会談の上、3月12日に敗北の責任を取って軍事委員会北平分会代理委員長を辞任し、同時に蔣介石の念願通り、張学良指揮下にあった東北軍は解体され、万福麟、于学忠、何柱国、王以哲を軍長とする四個軍に改編され、中国北部に対する中央の支配力確立の端緒となった。一方、満州国軍総司令張景恵は3月13日新京に凱旋した。 その後、関東軍は熱河省での掃討戦において中国側が繰り返す執拗な反撃に対し、3月18日、長城線の各関門を確保するため第6及び第8師団主力を向かわせた。
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作戦経過
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6月26日に「カレドン」、「ガーランド」、「ヴァンパイア」がアレクサンドリアから出撃し、「ケープタウン」、「ヌビアン」、「モホーク」と合流。6月28日に船団と合流し、船団は7月2日と3日にアレクサンドリアとポートサイドに到着した。 第7巡洋艦戦隊は6月27日にアレクサンドリアから出撃し、K地点へと向かった。 6月28日、第7巡洋艦戦隊はイタリア駆逐艦発見の報告を受けて攻撃に向かい、イタリアの駆逐艦「エスペロ」、「ゼフィーロ」、「オストロ」と交戦して「エスペロ」を撃沈した(エスペロ船団の戦い)。 これ以外に、この作戦の一部として出撃した駆逐艦「ヴォイジャー」、「デインティ」、「デコイ」、「ディフェンダー」、「アイレクス」がイタリア潜水艦「コンソーレ・ジェネラーレ・リウッツィ」と「ウエビ・セベリ」を沈めた。
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作戦経過
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そこで1945年1月、日本は石油など最重要資源輸送目的に限定して南方航路を維持することを決め、そのために「特攻精神」による「特攻輸送」を行うこととした。1月20日、「南方ヨリノ帝国燃料資源ノ還送作戦ノ遂行」等を含む大綱が、大海令第37号をもって発せられた。大本営陸軍部と海軍部の間で「燃料竝ニ重要物資緊急還送作戦實施ニ關スル陸海軍中央協定」が締結され、海軍の担当部分に関連しては連合艦隊司令長官指揮の下で「南号作戦」が行われることとなった。ただし、戦史叢書によれば、南号作戦が中央協定の対象となる海軍の行動全てを指すものかは明確でない。この中央協定に基づき、同日、大本営海軍部は大海指第500号を発令。連合艦隊司令部も「南方動脈輸送路護衛強化作戦」(GF電令作第478号)を発令した。なお、「南号作戦」の作戦名は、同時期に行われた残存海軍艦艇による強行輸送である「北号作戦」に対応した名称となっている。 1月の機動部隊襲来による被害でタンカーが不足する中、損傷船の修理などが急がれ、南号作戦に投入された。護衛戦力としては、海上護衛総司令部の第一護衛艦隊主力などのほか、第五艦隊(2月上旬より第十方面艦隊に改編)、第四航空戦隊や第一航空艦隊といった連合艦隊の残存戦力も好機を捉えて投入し、護衛や哨戒強化に充てるものとされた。支那方面艦隊は第二遣支艦隊(護衛艦艇約4隻)、海南警備府部隊(護衛艦艇約2隻)、上海根拠地隊(護衛艦艇約7隻)を海上護衛総司令部司令長官の指揮下に入れた。陸軍航空隊も上空援護に協力した。戦術面ではヒ86船団やヒ87船団の戦訓にかんがみ、従来の大船団主義を転換、空襲による被害を限定するために輸送船数隻からなる小規模な船団が原則とされ、可能な限りの護衛艦艇が付された。例えばヒ88A船団は、タンカーのせりあ丸(三菱汽船:10238総トン)1隻のみと護衛の駆逐艦・海防艦・駆潜艇のべ8隻から構成された。輸送船自体にも対空機銃や爆雷などの自衛兵装が多数搭載された。 また南号作戦の支援として2月22日から3月12日まで中国東部沿岸における潜水艦撃滅を目的とした掃討作戦である「AS1号作戦」、3月13日から17日まで中国沿岸から台湾までにおける潜水艦撃滅を目的とした掃討作戦である「AS2号作戦」が実施され、第百二戦隊(軽巡洋艦「鹿島」、海防艦「屋代」・「御蔵」・第2号・第33号・第34号)と第九三一海軍航空隊(九七式艦上攻撃機)が従事した。 3月までに、大内建二によれば11次に渡る船団として30隻のタンカーが送り出されたが、その多くは途中で撃沈された。もっとも、17000キロリットルの航空用ガソリンの輸送に成功したせりあ丸のように無事に到着した例もあり、3月27日に徳山港に入港した光島丸まで6隻が任務を達成した。一方、戦史叢書によれば、1月20日〜3月16日の期間中に航行した重要資源船団は15隊、加入輸送船のべ45隻・護衛艦艇のべ50隻で、そのうち輸送船20隻と護衛艦4隻を失ったとしている。 3月中旬、海上護衛総司令部は、沖縄への連合軍上陸が迫り、以後の輸送成功の見込みが乏しい一方、満州や華北との航路維持のために護衛戦力や船舶の温存・配置転換が必要なことから、南号作戦の中止を勧告した。これにもとづき同月16日、大本営海軍部は大海指第511号を発し、南号作戦の中止を命令した。南方に残っていた可動船舶を寄せ集めたヒ88J船団(輸送船7隻、護衛艦艇9隻)が、最後の一便として3月19日にシンガポールから出航したが、サイゴン行きで途中分離した3隻を除いて同月29日までに輸送船全滅、海防艦3隻沈没という結果に終わった。
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作戦経過
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日本軍は制空権こそ無かったものの、作戦開始早々に各地で英印軍を包囲。勝利は確実と思われたが、英印側の行動は全て予定されたものだった。主戦線は、マユ川(英語版)上流のKalapanzin River周辺に広がる内陸部の盆地、シンゼイワ(英語版)・Ngakyedauk 付近で、両軍は膠着状態に陥った。通称「アドミン・ボックス(管理箱。日本側呼称円筒陣地、もしくは立体陣地)」と呼ばれた密集陣を展開し、包囲されたまま空輸による補給、増援を受け頑強に抵抗するイギリス軍に対し、日本軍は散発的な攻撃の繰り返しで損害が累積。花谷師団長、桜井歩兵団長ら上層司令部もなんら有効な策を打ち出せぬまま隷下部隊の指揮官たちに自決を強要するといった苛烈な督戦を繰り返すのみで、やみくもに出血を強いた。
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作戦経過
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第111.2任務群は6月12日にマヌス島から出撃した。トラックへの途上で、命令には巡洋艦部隊によるトラックの日本軍陣地に対する艦砲射撃も追加された。この変更は、後の作戦で巡洋艦が沿岸部の目標に対する砲撃に使用されることが予想されたからである。その準備のため、北への航海中に砲術訓練が実施された。トラック攻撃に先立ち、墜落した航空機の乗員救助のためアメリカ海軍の潜水艦がトラック付近に配置された。
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作戦経過
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作戦経過
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1942年2月11日夜、オットー・チリアクス中将が率いるシャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンおよび駆逐艦6隻は約20機のドイツ空軍の戦闘機の護衛を受けつつブレストを出港した。イギリス海軍の偵察機がこれを間もなく察知したものの、無線不使用の通達を守ったために、基地に帰還するまで約2時間このことを伝えることができないまま時間を無駄にすることになった。 12日10時42分、偵察機の報告を受けて基地を飛び立ったイギリス空軍のスピットファイアがようやく艦隊を発見し、さらに高速魚雷艇5隻が攻撃を試みるも失敗した。12時45分、ユージン・エズモンド(英語版)少佐率いるソードフィッシュ6機が攻撃を行ったが、護衛の戦闘機と艦船による対空砲火で全滅し艦隊に損害を与えることはできなかった(搭乗員18人中エズモンド少佐ら13人が戦死)。 14時31分、海峡を通過したところでシャルンホルストがイギリス海軍の敷設した機雷に触雷した。シャルンホルストは応急修理の後30分後に航行を再開した。ドイツ艦隊の海峡通過後からイギリス空軍の爆撃機が攻撃を開始したが、損害は与えられなかった。その後19時55分にグナイゼナウが触雷、21時34分にはシャルンホルストが再度触雷するも3隻とも無事にドイツ本国にたどり着くことができた。 英仏海峡を白昼堂々突破されたことで、ヒトラーの思惑通りにイギリス海軍には轟々たる非難の声が殺到し、海軍は真相隠蔽に狂奔、数少ない攻撃隊の生存者に勲章をばらまいてお茶を濁した。しかし、ドーバー海峡を突破しノルウェーを経由してキールに到着したドイツ艦隊は狭い水域に封じ込められた事になり、スカパフローのイギリス海軍本国艦隊に動きを遮断され、連合軍の制海権を脅かすものではなかった。結局、ドイツ海軍は戦術的にかろうじて成功したが、戦略的には完敗した。
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作戦経過
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「アレクサンドリア港攻撃」の記事における「作戦経過」の解説
1941年12月3日に訓練を装ってラ・スペツィアより出航したイタリア潜水艦シィーレは沖合で艀よりSLC3隻を移載し、6日後にエーゲ海のレロス島に着いた。一方、SLCの要員は空路でレロス島へ向かい、そこで乗艦となった。SLC要員が別行動となったのは、潜水艦での長期航海が彼らに悪影響を与えることが分かっていたからである。 SLC要員と各組の攻撃目標は以下の通りであった。 SLC221:(ルイジ・デュラン・デ・ラ・ペンネ(イタリア語版、英語版)海軍大尉、エミリオ・ビアンキ二等潜水兵曹、目標は戦艦「ヴァリアント」 SLC222:アントニオ・マルチェリア造船大尉、スパルタコ・スケルガート潜水一等兵曹、目標は「クイーン・エリザベス」 SLC223:ヴィンチェンツォ・マルテロッタ兵技大尉、マリオ・マリーノ二等潜水兵曹、目標は空母(第2目標はタンカー) 他に予備要員2名も乗艦した。12月14日、「シィーレ」は出撃しアレクサンドリアへ向かった。気象条件の問題で攻撃は1日延期され、12月18日決行となった。 12月18日の日没後「シィーレ」は浮上し、アレクサンドリアの商港の沖で3隻のSLCは発進した。イギリス海軍では、クイーン・エリザベス級戦艦のバーラム (HMS Barham) が前月25日にU-331に撃沈されたこともあり、その姉妹艦をアレクサンドリアで温存していた。SLCはRas el Tin半島、次いで防波堤に沿って進み、真夜中に軍港入り口の防御材と防潜網に着いた。この夜は帰投するイギリス巡洋艦「ナイアド」、「ユーライアラス」および駆逐艦4隻のために0時24分に港の入口は開かれていた。3隻の駆逐艦が入港するのを見たペンネは、その機に他の2隻と共に港内への侵入を果たした。 ペンネのSLCは「ヴァリアント」のもとにたどり着き潜水した際に海底に沈下してしまった。また、ビアンキは気絶した。モーターの起動に失敗したペンネは40分かけて爆薬を戦艦の真下まで移動させた。その後浮上したペンネはビアンキ共々捕らえられた。二人はまず陸上に移されて尋問されたが、氏名、階級および識別番号のみしか答えなかった。その後二人は「ヴァリアント」に戻された。アンドルー・カニンガムによれば、彼は二人を「ヴァリアント」に戻し、艦内下部に閉じ込めるよう命じたという。捕虜を危険な状況に置くことで情報を入手しようとしたものであった。閉じ込められた二人であったが、何もしゃべらなかった。二人が閉じ込められていた場所は偶然ではあるが爆薬設置場所の近くであった。 マルチェリア組は「クイーン・エリザベス」への爆薬設置に成功し、4時30分に岸にたどり着いた。空母はおらず、マルテロッタは3隻目の戦艦と思しきものを発見して攻撃しようとしたものの、その後それは巡洋艦であると判断。ノルウェーのタンカー「サゴナ (Sagona)」(7,554 GRT) のもとにたどり着き、呼吸装置の不具合で潜水できなかったことから、その船尾に爆薬を取り付けた。 爆発予定時刻の10分前になってペンネは艦長への面会を求め、もうすぐこの艦は沈むと述べた。その後、ペンネは元の監禁場所に戻された。5時45分、「サゴナ」の爆薬が爆発。続いて6時6分に「ヴァリアント」で、6時10分に「クイーン・エリザベス」で爆発が起きた。ペンネは脱出でき、またビアンキも助かっている。 マルテロッタ組は上陸後エジプト警察に逮捕された。マルチェリア組は列車でロゼッタへ向かった。ロゼッタ沖では潜水艦「ザフィロ (Zaffiro)」が待機していた。二人はロゼッタで他の組を待っていたが、12月23日にエジプト警察に逮捕された。
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作戦経過
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「第一次ベララベラ海戦」の記事における「作戦経過」の解説
8月22日の撤退作戦は、駆逐艦複数隻(浜風、磯風、時雨)で実施された。0130にラバウルを出撃する。午後3時頃、ブーゲンビル島北方を航行中にB-24重爆に触接される。夜になりチョイセル島北方海面を航行中、偵察機より「敵巡洋艦4隻、駆逐艦数隻レカタ湾口にあり」の報告を受けた。敵艦隊に北上の気配があったことや、天候不良もあり、宮崎司令は輸送作戦の中止を決断した。輸送部隊はラバウルに帰投した。 輸送作戦の中止をうけて、外南洋部隊指揮官鮫島具重海軍中将(第八艦隊司令長官、ブーゲンビル島のブイン所在)は増援部隊(第三水雷戦隊)全力による輸送を命じた。8月25日0200、増援部隊(第三水雷戦隊)はラバウルを出撃する。1730、ブーゲンビル海峡北口で陽動隊(川内、漣)と輸送隊(浜風、磯風、時雨)および松風は分離し、陽動隊はショートランド島南方を機宜行動した。分離した松風はブイン~ラバウル間の輸送に従事した。この時、先のベラ湾夜戦で遭難した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐と沈没艦(萩風、嵐、江風)生存者を収容している。 輸送部隊はブーゲンビル島北側を南下し、サンタイサベル島へむかった。8月26日0045、輸送隊はレカタ基地に到着した。揚陸中に夜間空襲をうけ、時雨は至近弾を受けた。陸戦隊員を収容して後、0145に泊地を出発する。輸送隊はブイン帰投予定だったが、連合軍機の活動状況からブイン入港をとりやめる。帰路、ブーゲンビル島沖合で輸送部隊をB-24重爆9機の襲撃を受ける。浜風が至近弾により損傷、機関部に浸水被害があり、便乗中の呉第七特別陸戦隊の司令を含めて戦死傷者を出した。陽動隊は26日1200、輸送部隊は27日0515、それぞれラバウルに帰投した。時雨座乗の第27駆逐隊司令原為一大佐は「まったくらくな仕事ではない」と回想している。 輸送隊が運んだ人員は、今度は川内と漣でラバウルからブインに移動、つづいてチョイスル島スンビ守備隊となった。本作戦で損傷した浜風は内地に帰投する。磯風と時雨はその後も第三水雷戦隊司令官の指揮下にあり、ソロモン諸島での作戦に従事した。
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作戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 16:16 UTC 版)
1941年(昭和16年)1月6日、MC4船団はジブラルタルを出発した。陽動で大西洋に出たあと、反転して地中海を東進し、マルタへむかう。イタリア王立海軍のアデュア級潜水艦2隻(アダラム(英語版、イタリア語版)、アスクム(英語版、イタリア語版))が攻撃に向かったが、連合軍船団を発見できなかったという。 1月7日、カニンガム提督が指揮する地中海艦隊“A部隊”(ウォースパイト、ヴァリアント、イラストリアス、随伴駆逐艦)はエジプトのアレキサンドリアを出撃した。A部隊は、マルタ島に向かうMW5船団を護衛する。1月9日、マルタ西方で地中海艦隊とH部隊および輸送船団が合流する。アーク・ロイヤルによるソードフィッシュ艦上攻撃機のマルタ空輸も完了。H部隊は西進してジブラルタルに戻っていった。MC4船団の上空直衛は、イラストリアスの艦上戦闘機フルマー (Fairey Fulmar) 担当していた。 1月10日朝、シチリア海峡でイタリア王立海軍潜水艦ルジェーロ・セッティモ (Ruggiero Settimo) と水雷艇2隻(キルケ―、ヴェガ)がエクセス船団を攻撃した。だがH部隊の反撃により、イタリア水雷艇ヴェガ (Vega) が英軽巡洋艦ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) と英駆逐艦ヘレワード (HMS Hereward, H93) によって沈められた。 イタリア水雷艇の攻撃を撃退したあとの午前8時34分、パンテッレリーア島付近で英駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) が触雷して航行不能となる。僚艦モホーク (HMS Mohawk, F31) が曳航を開始、マルタにむかう。軽巡3隻(サザンプトン、グロスター、ボナヴェンチャー)が掩護のために輸送船団から離れ、イギリス側の防空能力が低下した。 正午以降、シチリア島から飛来した枢軸国空軍機が英地中海艦隊に対する空襲を開始した。12時20分より、イタリア王立空軍のサヴォイア・マルケッティ SM.79(魚雷装備)小数機が攻撃を敢行する。戦艦ヴァリアント (HMS Valiant) は辛うじて魚雷を回避した。直掩のフルマー5機はイタリア雷撃隊を迎撃するため高度を下げ、また空中戦で機銃弾を消耗する。イラストリアスでは、フルマー6機の発艦準備にはいった。 12時30分、ドイツ空軍第1急降下爆撃航空団(英語版)第1飛行隊と第2急降下爆撃航空団(英語版)第2飛行隊のスツーカ 合計43機が英地中海艦隊を捕捉し、10機が英戦艦に、33機がイラストリアスを攻撃する。イラストリアスの直衛機は補給のため母艦に着艦しようと低空に位置し、また直衛機の緊急発進も間に合わず、高度4,000メートルで飛来したドイツ空軍機を阻止できなかった。イラストリアスに爆弾6発が命中し、至近弾は3発であったという。ウォースパイトには爆弾1発が命中したが右舷艦首の錨だったので損害軽微、ヴァリアントは至近弾を受けた。イラストリアスは大きな損傷をうけて炎上。操舵装置も破壊されたが機関は無事であり、退避を開始する。枢軸空軍の第三次攻撃、第四次攻撃は機数が減っていたこともあり、イギリス地中海艦隊に深刻な被害はなかった。同日夜、イラストリアスはマルタに到着した。 1月11日朝、第3巡洋艦隊司令官のレヌフ少将 (Edward de F. Renouf) は麾下艦艇(軽巡グロスター〈旗艦〉、サウサンプトン、駆逐艦ディフェンダー、ダイヤモンド)を率いてマルタのバレッタ港を出発、東進して地中海艦隊との合流を目指した。シチリア島を基地とするスツーカ部隊の行動圏外に出たとイギリス側は思っていたが、第2急降下爆撃航空団のスツーカ12機はHe-111 (Heinkel He 111) 爆撃機に誘導されてB部隊を捕捉、奇襲をかける。急降下爆撃で軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) が大破したあと失われ、軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) が艦橋への不発弾で小破した。 ヘルマン・ゲーリング空軍元帥は、修理中のイラストリアスを葬ろうと尽力した。1月16日、メッサーシュミットに護衛されたJu-87“スツーカ”44機がマルタ島を空襲する。イラストリアスに爆弾が命中した。他にもグランド・ハーバー在泊の輸送船エセックス、軽巡パース (HMAS Perth, D29) が被弾して損傷した。18日、スツーカ 51機がマルタの二カ所の飛行場を爆撃し、使用不能とする。19日、スツーカ 42機は本命のイラストリアスを襲撃する。ハリケーン戦闘機の迎撃もあり、至近弾2発で済んだがスクリューに損傷をうける。23日夕刻、護衛部隊や出迎えにきた地中海艦隊と共にマルタを離れ、25日アレクサンドリアに戻ることが出来た。 マルタ到着後積荷を下ろした空の船団はME5 1/2船団としてアレクサンドリアに戻った。 前述のように、曳航されてマルタ島に到着した駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) であったが、バレッタで修理中の1942年(昭和17年)4月5日に空襲を受け、修理不能と判定されて放棄された。
※この「作戦経過」の解説は、「MC4作戦」の解説の一部です。
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作戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/10/09 12:54 UTC 版)
「MC2作戦とMC3作戦」の記事における「作戦経過」の解説
1940年12月15日と16日にアレクサンドリアとポートサイドから、マルタへ向かうMW5A船団とMW5B船団が出発した。MW5B船団にはクレタ島およびギリシャへの人員輸送を行うUlster Princeも同行しており、クレタ島南西沖で船団と別れた。両船団は12月20日にマルタに到着した。 A部隊とB部隊も12月16日にアレクサンドリアから出撃した。ただし、エーゲ海で活動中であった第3巡洋艦戦隊(オライオン、シドニー、エイジャックス)は後日合流した。12月17日、イラストリアス搭載機がスタンパリア島とロドス島を攻撃した。12月19日、ウォースパイトとヴァリアントがヴァロナを砲撃した。また、オライオン、シドニー、エイジャックス、駆逐艦3隻がオトラント海峡で敵船舶を探索したが何も発見できなかった。 12月20日にエジプトへ向かうME5A船団がマルタから出発。12月21日、イラストリアス搭載機がチュニジア沖でイタリア船団を攻撃し2隻を沈めた。また、12月22日にはトリポリを攻撃した。A、B両部隊は12月23日と24日に帰投し、ME5A船団も12月23日にアレクサンドリアに到着した。 戦艦マレーヤは、マルタへの船団護衛後そのままMG1船団(クラン・フレーザー、Clan Forbes)とともにジブラルタルへ向かった。その途中、護衛の駆逐艦の1隻ハイペリオンが触雷またはイタリア潜水艦の雷撃で損傷し処分された。MG1船団とマレーヤは、ジブラルタルから出撃(ハイド作戦)してきたH部隊と12月22日に合流した。
※この「作戦経過」の解説は、「MC2作戦とMC3作戦」の解説の一部です。
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作戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/02/05 10:32 UTC 版)
1940年7月5日20時にH部隊はジブラルタルから出撃した。作戦に参加したのは次の艦艇であった。 戦艦:ヴァリアント 巡洋戦艦:フッド 航空母艦:アーク・ロイヤル 軽巡洋艦:アリシューザ、エンタープライズ 駆逐艦:10隻 航空母艦「アーク・ロイヤル」 戦艦「ヴァリアント」 巡洋戦艦「フッド」 軽巡洋艦「アリシューザ」 軽巡洋艦「エンタープライズ」 艦上雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ 艦上攻撃機ブラックバーン・スクア 7月6日5時20分に第1次攻撃隊(ソードフィッシュ6機)が、5時45分に第2次攻撃隊(ソードフィッシュ3機、スクア6機)が、そして6時20分に第3次攻撃隊(ソードフィッシュ3機、スクア6機)が発進し、ダンケルク攻撃をおこなった。 H部隊は7月6日18時30分にジブラルタルに帰投した。
※この「作戦経過」の解説は、「レバー作戦」の解説の一部です。
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作戦経過
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ABDA司令部の基本戦略は、マレー半島(シンガポール)を中心としてスマトラ島からジャワ島(オランダ領東インドの最南端)に連なる防衛線「マレー防壁、Malay Barrier もしくは East Indies Barrier 」を保持しようとするものであった。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、アルカディア会談により総司令官に内定したウェーヴェル大将に対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた。シンガポールにはイギリス極東軍司令部(ポーナム将軍)が存在し、このままではABDA司令部と二重構造になるため、ウェーベル将軍はシンガポールに飛んで打ち合わせをおこなう。最初にダフ・クーパーと会談し、続いてマラヤ司令部(英語版)のパーシバル陸軍中将と共にシンガポール防衛施設の状況を視察、その無為無策な状況に慄然とする。ABDA司令部は英極東軍司令部を吸収する形となった(総司令官ヴェーヴェル大将、副総司令官ブレッド中将、参謀長ポーナル中将)。1月10日にジャワ島バタヴィアに到着、中部ジャワ州レンバンにおいて司令部を開設した。ABDA陸軍部隊のポールテン将軍もレンバンに司令部を置いた。 この間にもシンガポールは追い詰められつつあり、マレー半島配備の連合国航空部隊は蘭印方面へ移動を始めていた。またシンガポールを拠点にしていたイギリス東洋艦隊(レイトン提督)は、護送部隊司令部をジャワ島西部のバタヴィアに置いた。悪化する戦況にも拘らず、ABDA司令部の最高指揮官たちはシンガポールは防衛可能と判断し、非常に楽観的だったという。なお1月中の連合国艦艇は船団護衛任務が主任務で、日本軍輸送船団の迎撃に成功したのはバリクパパン沖海戦のみであった。 連合国海軍部隊最高司令官に任命されたアメリカ人のハート提督(米国アジア艦隊長官)は、潜水艦でフィリピンからジャワ島に脱出していた。ハート提督は海軍部隊副司令官にパリサー少将(当時、バタビア駐在英国海軍先任武官)を任命したので、オーストラリア海軍軍人のコリンズ提督がパリサー本来の任務をひきついだ。シンガポール増援輸送が完了すると、多国籍艦艇を再編成してABDA攻撃部隊が発足し、オランダ海軍将校のカレル・ドールマン提督が海上指揮官に任命された。 「ジャワ沖海戦」も参照 この時期、日本軍は東南アジア方面の制空権を掌握し、ABDA部隊の動向を掴んでいた。山口多聞少将の第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)に支援された日本軍がモルッカ諸島アンボン島に駐留する王立オランダ領東インド陸軍を攻撃し、占領した。勢いに乗る日本軍はスラウェシ島ケンダリを占領し、二航戦は東ジャワ州の主要港(スラバヤ、タンジョンプリオク)を空襲、オランダ領東インド空軍に大打撃を与えた。対峙するABDA部隊の方は制空権を失ったので、多方向からジャワ島を目指す日本軍の作戦全貌がわからず、振り回されることも多かった。ボルネオ島東部バリクパパン方面の日本軍を攻撃するため、バリクパパン沖海戦の再現を狙ってABDA部隊(軽巡デ・ロイテル、重巡ヒューストン、軽巡マーブルへッド、駆逐艦部隊)が出撃したが、ジャワ海で日本海軍基地航空部隊(九六陸攻、一式陸攻)に攻撃されマーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) が大破した。 2月15日、極東防衛と大英帝国の要石だったシンガポールが陥落した。同日、スマトラ島パレンバンに空挺部隊を投入した日本軍(バリクパパン攻防戦)に対処するためABDA攻撃部隊(ABDA艦隊)は多国籍艦隊を率いて出撃、日本軍西部攻略部隊(馬来部隊)の攻撃にむかった。だがガスパル海峡で日本海軍の基地航空部隊と軽空母龍驤(第四航空戦隊、角田覚治少将)の空襲で撃退された。 ABDA艦隊が敗退した頃、ウェーヴェル総司令官はチャーチル英首相に「制空権がない現状ではジャワ島の防衛は難しい。」と報告した。ハート大将はアメリカに帰国し、オランダ海軍のコンラッド・ヘルフリッヒ中将が後任の連合国海軍部隊司令官になった。アメリカ海軍の先任将校はグラスフォード少将になる。日本軍がバリ島に上陸中との情報によりガスパル海峡から敗退してきたABDA部隊は急遽出動したが、バリ島沖海戦で撃退された。 日本軍は、連合国軍がオーストラリア~ジャワ島の航空機輸送において中継地点だったティモール島を攻略して占領し、続いてオーストラリアを直接攻撃する。2月19日、南雲機動部隊が北部豪州のダーウィンを空襲した。ジャワ海方面で南雲機動部隊が活動を開始したため、連合国はオーストラリアからバンダ海とフローレス海を経由して蘭印に増援部隊を送ることが難しくなった。この頃になると、燃料不足と弾薬不足も深刻な問題になっていた。 同年2月21日、ABDA司令部はビルマの担当をインド駐留軍に譲った。この日、ウェーヴェル総司令官は「ABDA地域の防衛は崩壊し、もはや役に立たないABDA司令部を廃止すべきである。」とチャーチル英首相に進言した。連合参謀本部はこれ以上の戦力消耗は無意味であると判断し、1942年2月25日にABDA司令部を正式に解散した。総司令官であったウェーヴェル大将は蘭印を去って元のインド駐留軍司令官に復帰する。そしてインドへ転任してビルマの戦いを指揮することになった。同様に、ABDA部隊を構成していた各国陸軍と空軍はビルマかオーストラリアに撤退する。オランダ領東インド周辺の指揮は、オランダ軍に委ねられた。ヨーロッパの本国は既にドイツに敗北して占領されており、いまやオランダ亡命政府(英語版、オランダ語版)に残された主要領土はオランダ領東インドになっていたからである。 「スラバヤ沖海戦」も参照 オランダ人の決意は固かったが日本軍の戦力は圧倒的で、ジャワ島の東部と西部に同時上陸を敢行するため、二つの大輸送船団を編成して南下しつつあった。西部ジャワ攻略を狙うのが第16軍主力(軍司令官今村均陸軍中将、第2師団)、東部ジャワ攻略部隊が第16軍隷下の第48師団である。さらに日本海軍の重巡部隊と南雲機動部隊がジャワ島南方のインド洋に進出し、連合国増援部隊に対する警戒と、脱出艦艇の阻止を図る。ヘルフリッヒ司令官の命令によりP-40戦闘機を満載してチラチャップにむかっていた水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) も、一式陸攻部隊(高雄海軍航空隊)に撃沈されて積荷の戦闘機は海没した。 蘭印防衛の最後の尽力はスラバヤ沖海戦で打ち砕かれ、オランダ海軍は主力艦艇とドールマン提督を失った。ABDA海軍部隊司令官(ヘルフリッヒ中将)は多国籍軍の部下達から「ジャワを救う望みはなく、各艦はそれぞれの祖国から引き揚げ命令を受けている。」と伝えられる。ヘルフリッヒ司令官は「ABDA艦隊は残余の艦艇で抵抗を続けるべきだ」と要求したが、イギリス将校達の反発により、脱出を認めた。3月1日、ヘルフリッヒ中将はジャワ島南部チラチャップ所在の艦船に脱出するよう命じたが、日本海軍の掃討作戦で撃滅される部隊や艦艇も少なからず存在した。 ジャワ島の東西に上陸した日本陸軍は順調に進撃をつづけ、3月9日に全島を占領する(ジャワ島攻防戦)。ABDA陸軍部隊総司令官だったポールテン将軍も降伏した。ジャワ島方面以外でも、日本軍はスマトラ島、アンダマン諸島占領、クリスマス島占領など、順調に占領地域を広げていった(日本占領時期のインドネシア)。 連合国はABDA司令部の代わりになるものを創設せねばならなかった。南西太平洋戦域(フィリピン、蘭印、ボルネオ島、ニューギニア島、ビスマルク諸島、ソロモン諸島西部)は南西太平洋方面軍の担当になり、フィリピンのコレヒドール要塞から脱出したアメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー将軍が、南西方面太平洋方面軍最高指揮官となった。ニミッツ提督(太平洋艦隊司令長官)は太平洋地域総司令官に任命される。これは北太平洋と中部太平洋および東太平洋諸島の一部がアメリカ海軍の、南西太平洋地域がマッカーサー将軍の作戦担当になったことを意味した。なお珊瑚海方面 (ANZAC Area) を担当するため1942年2月上旬に新編されたANZAC部隊(司令官ハーバート・F・リーリィ中将、ANZAC戦隊司令官はクレース少将)も、南西太平洋方面軍に吸収されている。
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作戦経過
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5月1日、東方面の第3師団が予定通り中国第31集団軍に対して牽制攻撃を開始した。当初中国軍の抵抗は微弱だったが、第31集団軍主力が前進してくると激しい抵抗となった。一方、南から進撃予定の日本軍主力(第13師団、第16師団等)方面では中国軍に退却の兆候が見られたため、予定を早めて5月5日から前進を開始、中国軍主陣地を突破して一挙に北進した。 5月6日、日本の第11軍司令部は、東方面と南方面の中国軍両翼拠点が崩壊したと判断し、中国軍の中核兵団である第31集団軍を棗陽北東の山地で包囲するよう命令した。第3師団が高城鎮付近の主陣地を撃破して転進しようとした時、第31集団軍の増加反撃を受けたがこれを撃退して前進した。師団の鈴木支隊(歩兵1コ大隊半)は、5月10日桐柏を占領した。 主力の第16師団・騎兵団は、中国軍が漢水西岸へ脱出するのを抑えながら漢水東岸に沿って北上急進し、滾河(漢水支流)の線まで進出。滾河渡河後は、中国軍の北方退路を遮断する形で北東方面へ旋回した。第16師団の左追撃隊(酒井支隊)は、5月9日夜、湖家鎮(棗陽の北方)で9個師からなる中国軍部隊に追いついて潰乱させた。騎兵団は第16師団の後方を前進したのち、滾河・唐河・白河を渡河して5月10日に新野を占領した。翌5月11日、騎兵団は韓庄付近を北上中の中国軍集団部隊を補足して、これに大打撃を与えた。(韓庄の戦い) 一方、第3師団正面では中国軍第4師が投入されたことで頑強な抵抗を受け、5月9日においても第31集団軍や広西軍主力(第84軍)は、依然として唐県鎮以北の山地内に存在すると判断された。このため5月10日、日本軍は包囲圏を圧縮して中国軍を山地内で捕捉することを企図した。5月11日、第3師団は合河付近で第31集団軍の3~4個師を撃破追撃し、翌日新集に到達した。軍主力(第13、第16師団、騎兵団)も山地周辺で中国軍を撃破した。 5月12日、第11軍司令部は中央直系軍(第31集団軍等)をおおむね壊滅させ作戦目的を達成したと判断し、部隊を反転させ大洪山東方地区の残敵掃討を命令した。5月13日から14日にかけ、各部隊は反転行動に移り各地で中国軍を掃討した。5月15日、第13師団は長崗店付近の山地一帯の陣地を占領している3~4個師に対して包囲攻撃を計画した。師団は5月20日に長崗店付近を掃討したが、中国軍は広大な山地に分散して退却したため予期したほどの戦果は上がらなかった。 襄東会戦の目的達成に伴って、5月下旬までに日本軍は元の占領地警備態勢に移行した。日本軍は、この会戦で約30個師前後の中国軍と交戦し、約20個師に大打撃を与えたものと判断した。中国軍は一時的に漢水以東地区を放棄した。作戦の戦果は遺棄死体約15,000、捕虜約1,600名、鹵獲火砲約15門、機関銃約140丁で、日本軍の損害は戦死約650名、負傷約1,800名だった。
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作戦経過
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戊一号輸送部隊(大和、谷風、山雲)は1943年12月20日に横須賀から出発。12月25日未明にトラック泊地西方北緯10度05分 東経150度32分 / 北緯10.083度 東経150.533度 / 10.083; 150.533)地点で、アメリカ潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) が大和部隊を発見、雷撃をおこなう。大和の右舷後方(三番主砲付近)に魚雷1本が命中、4度傾斜したので770トンを注水し復元する。大和は26ノットに増速したが、特に異常はなかった。戦死者は大和乗組員や陸軍の将兵ともに皆無で、乗組員達は被雷したことに気付かなかったという。同日、トラックに到着する。大和に熊野や鈴谷、大淀や能代が接舷し、兵員や車輌や物資の移載が行なわれた。大和を護衛してきた山雲と満潮は、そのまま戊二号輸送部隊と戊三号輸送部隊の護衛部隊に編入される。大和は工作艦明石の世話になって応急修理を実施、戊号輸送終了後に内地へ帰投した アメリカ軍の方では、シャーマン少将の第37.2任務群(大型空母バンカー・ヒル、軽空母モンテレー、フレッチャー級駆逐艦6隻)がエスピリトゥサント島を出撃し、12月25日にカビエンを空襲した。奇襲には成功したが戦果は乏しく、日本軍の輸送船天竜丸が沈没、輸送船清澄丸および第21号掃海艇と第22号掃海艇などが損傷した。 シャーマン部隊は「日本軍の巡洋艦部隊がカビエンに接近中」という情報により、反覆攻撃をおこなう。ただし護衛部隊が駆逐艦6隻だけだったので、ノースカロライナ級戦艦2隻(ワシントン、ノースカロライナ)と駆逐艦4隻(ラング、バーンズ、イザード、ウィルソン)が追加された。ウィリス・A・リー少将が指揮する6隻は25日にエスピリサント島を出発、31日に空母2隻や補給艦と合流する。シャーマン部隊の誰もが、自分たちが日本軍の勢力圏に踏み込み過ぎていると感じ、不安になっていたという。リー少将や将兵たちは「我々はイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) 、巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) と同じ立場だった。マレー沖海戦も戦艦2隻と駆逐艦4隻だった。」と回想している。 戊三号輸送部隊は第一部隊と第二部隊の二つに分かれていた。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)は12月26日午後にトラックから出発した。前日にカビエン空襲があったことから一時延期が命じられ引き返し、28日にもどった。第一部隊は12月29日に再度出発し、12月31日にカビエン到着。揚陸完了後、1944年1月1日にトラックへ戻った。 第二部隊(能代、大淀、秋月、山雲)は12月末にトラックから出発。1944年1月1日にカビエンへ到着、揚陸を実施する。作業完了直後、シャーマン少将の空母機動部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から飛来した艦上機に襲撃された。二航戦派遣隊を含む零戦が米軍攻撃隊を邀撃し、洋上の対空戦闘では能代と山雲が小破、大淀に軽微な被害が生じ、秋月は無傷だった。4隻はトラック泊地に引き揚げる。先行してトラックに戻った能代と山雲のうち、能代は工作艦明石の世話になり、応急修理を実施した。 その頃、カビエンからトラック泊地にむかっていた特設巡洋艦清澄丸と護衛部隊(夕凪、第22号掃海艇)は、アメリカ潜水艦バラオ (USS Balao, SS-285) に襲撃された。清澄丸が被雷して航行不能になる。帰投中の第二部隊より大淀と秋月が分離し、トラック泊地から来た救難部隊(軽巡那珂、駆逐艦谷風)に協力した。清澄丸は那珂(第十四戦隊、伊藤賢三少将)に曳航されて、1月8日トラック泊地に帰投した。明石側は内地帰投を薦めたが、清澄丸側は明石による本格的な修理を希望して、しばらくトラック泊地に残ることになったという。 戊二号輸送部隊(妙高、羽黒、利根、藤波、白露)は12月24日に内海西部から出発する。時雨(二水戦、第27駆逐隊)が漁船と衝突したため、藤波(二水戦、第32駆逐隊)が代艦として護衛部隊に加わっており、12月29日トラック着。1944年1月2日発、1月4日カビエンに到着。利根(艦長黛治夫大佐)では迅速に揚陸するため三八式歩兵銃を纏めて梱包したため、陸軍側は抵抗感をもったという。米軍攻撃隊接近の報告をうけて急速揚陸を行い、トラック泊地へ戻った。 この日、シャーマン部隊(バンカー・ヒル、モンテレー)から艦上機が飛来してカビエンを攻撃する。戊二号輸送部隊はスコールに逃げ込んだので発見されず、米軍攻撃隊はカビエン周辺の艦艇を攻撃した。対潜警戒のためカビエンで揚陸作業を掩護していた第22駆逐隊(第三水雷戦隊)の駆逐艦2隻(皐月、文月)が、カビエンからラバウルに戻る途中で空襲に遭遇した。文月は機銃掃射で死傷者多数を出し、皐月も至近弾や機銃掃射でかなりの被害をうけ、飯野忠男艦長戦死など人的被害も甚大であった。 空襲を実施したシャーマン部隊も、日本軍の索敵機に幾度か発見されていた。シャーマン部隊は反撃を怖れて退避し、1月7日にエスピリサント島に戻った。 シャーマン部隊から戊三号輸送部隊を守り抜いたカビエン基地だが、消耗も激しかった。戊三号輸送部隊に参加した各艦のうち、大和と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、藤波)は呉に帰投した。大和は23ノットという巡航速力で内地にむかった。途中でアメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が大和を狙うが、追いつけなかった。戊二号輸送部隊の身代わりになった第22駆逐隊のうち、文月はトラック泊地で明石により応急修理をうけたあと、ラバウルに進出して最前線の任務に従事した。皐月は機関部に損傷が及んだため本格的修理が必要となり、応急修理をおこなったあと、佐世保に帰投した。 1月下旬、独立混成第一連隊の第二大隊(大隊長岩上泰一郎少佐、約750名)は第4駆逐隊(司令磯久研磨大佐:山雲、野分、舞風)などによる鼠輸送によってアドミラルティ諸島(マヌス島のロレンガウ)へ送られ、マヌス島とロスネグロス島の守備隊を増強した。その後、1944年2月下旬にマッカーサー軍(第5騎兵師団、第7艦隊)が実施した上陸作戦により、同諸島の日本軍守備隊は全滅している。トラック泊地も、2月17日にアメリカ海軍機動部隊の襲撃で大打撃をうけた。この空襲にはバンカー・ヒルも第58任務部隊として参加し、香取船団(軽巡香取、駆逐艦舞風、野分、特設巡洋艦赤城丸)を攻撃している。他にも軽巡那珂を撃沈した。カビエン空襲を生き延びた特設巡洋艦清澄丸と、駆逐艦文月も沈没した。それと前後してギルバート諸島とマーシャル諸島も失陥した。
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作戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 02:09 UTC 版)
10月15日にトリンコマリーより出撃。 10月17日、カーニコバル島およびナンコーリ島を空襲。港内で石狩丸(830トン)を沈めた。イギリス側はコルセア2機とバラクーダ1機を失った。またヘルキャット1機が着艦時に墜落した。続いて第63.2任務群がカーニコバル島を砲撃。夜間にもロンドンと駆逐艦2隻が砲撃を行った。 10月18日、レナウン、サフォーク、駆逐艦3隻が艦砲射撃を実施。 10月19日、ナンコーリ島を空襲。イギリス側はバラクーダ1機を失った。また、バラクーダ1機が海上で墜落している。同日、スマトラの日本軍第九飛行師団がイギリス艦隊攻撃を試み、一式戦闘機9機がイギリス戦闘機と交戦、日本側は4機喪失、2機不時着、イギリス側はコルセア2機とヘルキャット1機を失った。 トリンコマリーへの帰路、駆逐艦1隻が触雷した。
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