韓庄の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:43 UTC 版)
襄東会戦中の特筆すべき戦闘として、韓庄の戦いが挙げられる。日本軍第11軍の左前方に進出した騎兵団(団長・騎兵第4旅団長小島吉蔵少将)は、5月10日に新野にて退却中の中国軍(500~600名)を撃破し、翌5月11日、中国軍主力の背後に出るため進路を東に向けた。前衛の騎兵第25連隊(長綾部橘樹大佐)は、進路上に潜伏していた中国兵を捕らえ、有力な中国軍部隊がこの方面に向かって退却してくるとの情報を得たため戦闘準備を整えて前進した。 韓庄(韓荘鎮:汝南県の一部)の西方6~700メートルに近づいた時、突如部落から射撃を受けたため、前衛の第25連隊は道の北側に移動して徒歩攻撃を開始した。これを見た小島少将は、騎兵第17大隊(長保刈清中佐)に正面から徒歩攻撃を命じ、騎兵第20連隊(長須藤研治中佐)を部落の北方、騎兵第26連隊(長加藤源之助中佐)を部落の南方に向けて乗馬突進させ、三方向からの包囲態勢をとった。 乗馬突進した第20、第26両連隊は韓庄から東方へ退却中の中国軍縦隊に対して乗馬襲撃を敢行、徹底的に蹂躙した。徒歩攻撃の第25連隊、第17大隊、旅団機関銃隊も火力で敵を圧倒した。交戦したのは第180師の補充団と第183師の3個団を主とした約1万人と見られ、多数の死体を遺棄して潰走した。 日中戦争中には中隊以下の乗馬戦闘は幾つか発生したが、旅団規模による騎兵戦闘は、日露戦争中の1904年(明治37年)5月30日、騎兵第1旅団により行われた曲家店の戦い以来のもので、小島騎兵団による戦闘が日本史における最後の大規模な乗馬戦となった。
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