北への航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:40 UTC 版)
デ・フカの説明によれば、彼はヌエバ・エスパーニャ副王のルイス・デ・ベラスコの命を受けて、大西洋と太平洋を結ぶ北西航路の一部であると信じられていたアニアン海峡を見つけるための航海に出た。最初の航海では、デ・フカは船長兼水先案内人として、スペイン陸軍大尉の指揮下にある200人の兵士と3隻の小型船とともに、アニアン海峡を発見する任務を当てられた。この探検は失敗に終わった。伝えられるところでは、船長の不当行為が原因で、兵士たちが反抗してカリフォルニアに帰ったためであるという(この時期、スペインの戦闘教義では、軍将校である軍事司令官と船員である航行航海司令官の間で船と艦隊の支配権が別れていたことに注意)。 1592年からの2回目の航海で、デ・フカは成功を収めた。キャラベル船とピンネースおよび少数の武装海兵隊で北へ航海した後、彼はアカプルコに戻り、北緯47度付近で入口に大きな島がある海峡を見つけたと主張した。現在のファンデフカ海峡は実際には北緯48度前後にあるが、デ・フカの航海についての説明は現実とは異なり、実際に存在していた地域とはかなり異なる地域を表している。デ・フカはまた、航海中に「高峰または尖頭岩」を見つけた。これは、ワシントン州の北西端のファンデフカ海峡の近くにあるフラッタリー岬の西岸にあるほぼ長方形の高さのある岩であった可能性があり、この岩は現在「フカの柱」(Fuca Pillar)と呼ばれている。ただし、デ・フカの報告ではこの岩は海峡の反対側にある。 しかし、ベラスコが繰り返し約束したにもかかわらず、デ・フカには、彼が本来受け取るべきと主張する巨額の報酬は支払われなかった。2年後、副王の要請により、デ・フカはスペインに渡って提訴した。彼は再び失望し、スペイン人にうんざりして、故郷に戻って引退することを決心したが、1596年にイギリス人のマイケル・ローク(英語版)から、スペインの大敵であるイギリスのエリザベス女王に仕えるよう説得された。この話は進展しなかったが、フアン・デ・フカの話がイギリスに伝わったのはロークの説明を通してである。
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