最初の北西航路航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:47 UTC 版)
「マーティン・フロビッシャー」の記事における「最初の北西航路航海」の解説
フロビッシャーは1560年頃から北西航路の探検航海を請け負おうという決意をもっており、友人らの前に地図を広げてアジアにある富とそこに行く最短航路を説いていた。サー・ハンフリー・ギルバート(英語版)の航海記録では、北アメリカ大陸の北端を回って中国(キャセイ)やインドに向かう最短距離の航路があるはずだとされており、フロビッシャーも大きく影響を受けている。このため、フロビッシャーは1575年頃からロンドンの有力者たちを回って探検航海の後援を行ってくれるよう働きかけている。フロビッシャーは、イングランド商人の出資を集めた勅許会社で、ロシアの北を回って中国に向かう北東航路へ多数の探検家を送り出していたモスクワ会社を説得し、その免許を受けることに成功した。彼はモスクワ会社のマイケル・ロック(Michael Lok)の支援を受けて、3隻のバークによる船団を組むための資金を集めた。この3隻は、20トンから25トンの大きさの「ガブリエル」号(乗組員18人)と「マイケル」号(乗組員17人)、および10トンほどのピンネース1隻(乗組員4人)であり 、総数39人という規模であった。 フロビッシャー一行はロンドン東部にあるテムズ川の河港ブラックウォール(Blackwall)で錨を揚げ、エリザベス1世直々の見送りをグリニッジで受け、1576年6月7日に出帆し、シェトランド諸島を経て西方の海に向かった。嵐の中でピンネースは失われ、7月11日にグリーンランド付近でガブリエル号とマイケル号もはぐれてしまった。氷と嵐に恐れをなしたマイケル号は結局戻り、ロンドンに9月初頭に帰港している。ガブリエル号はそのまま航海を進め、7月20日にレゾリューション島を発見し「クイーン・エリザベスズ・フォアランド(Queen Elizabeth’s Foreland)」と名付け上陸した。数日後、ガブリエル号はバフィン島のフロビッシャー湾湾口に到達したが、氷と風によりこれ以上北への航海ができないと感じたフロビッシャーは西のフロビッシャー湾内へと船を進めることにした。彼はこれを海峡だと信じ自らの名を冠して「フロビッシャー海峡」と名付け、その反対側の海へ出ようと考えていた。これが海峡でなく湾だとはっきりしたのは、アメリカ合衆国の北極探検家チャールズ・フランシス・ホールによる1861年の航海の時である。 しかし湾は行き止まりとなり、8月18日に一行はバフィン島に上陸する。ここで彼らはイヌイットらと遭遇した。フロビッシャーはその内の一人を案内人として周囲を探索し、案内人を海岸に送り返す際に部下5人をボートに乗せて送り出した。部下には現地人にあまり接近しないよう指示していたが、彼らは指示を破り、おそらくイヌイットに捕まったとみられる。数日間の捜索で部下を見つけられなかったフロビッシャーは、案内人であったイヌイットを捕虜として行方不明になった部下を返さない限り解放しないとイヌイットたちを脅した。しかし結局部下は戻らなかった。イヌイットの伝説では、行方不明になった部下たちはイヌイットの一員となっており、数年間暮らしたが、手製のボートを作ってバフィン島を出ようとして死んでしまったという。バフィン島を出たフロビッシャーの乗るガブリエル号は、10月9日にロンドンに帰港した。マイケル号の帰港後、ガブリエル号もフロビッシャーも行方不明になったとされており、彼らの帰港はロンドンを熱狂させた。 彼らが急いで持ち帰った物の中には「黒い石のかけら」があった。金属の分析家たちはこの鉱石に興味を示さなかったが、フロビッシャーの相談を受けた4人の専門家のうちの1人がこれには金が含まれているとおだてて喜ばせた。フロビッシャーの支援者であるマイケル・ロックやモスクワ会社は、この相談結果を更なる航海の投資集めに利用した。
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