最初の北極遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 13:15 UTC 版)
「チャールズ・フランシス・ホール」の記事における「最初の北極遠征」の解説
1857年ころ、ホールは北極に関心を寄せるようになり、その後数年にわたって探検家たちの報告書などを研究し、遠征資金の調達を試みたが、そのおもな目的は、サー・ジョン・フランクリン率いるイギリスの探検隊が消息を絶ったフランクリン遠征の行方を見つけ出すことにあった。 1860年から1863年にかけて、ホールは最初の遠征に赴き、シドニー・O・バディントン (Sidney O. Budington) 船長が指揮する捕鯨船「ジョージ・ヘンリー (George Henry)」に乗ってマサチューセッツ州ニューベッドフォードを出発したが、この船には船長のおじでエドワード・ベルチャーの遠征で放棄されたHMSレゾリュート(英語版)をサルベージした経験をもつジェームズ・バディントン (James Budington) も乗り込んでいた。ホールはバフィン島まで達したが、ここで船は越冬を余儀なくされた。ホールは、イヌイットから、バフィン島のフロビッシャー湾でマーティン・フロビッシャーが金を求めて採掘を行なった遺構のことを聞かされた。ホールはすぐに現地に行き、直接遺構を見聞したが、これは新たに見出したイヌイットのガイドたち、エビアビング(英語版)(別名ジョー)とトゥクーリト(英語版)(別名ハンナ)の計り知れないほどの助力を得てのことであった。 ホールはまた、フランクリン遠征隊の隊員の一部がまだ生き残っている証拠だと解釈した知見も得た。ニューヨークに戻ったホールは、ハーパー・ブラザース(英語版)から遠征記『Arctic Researches and Life Among the Esquimaux』(『北極の探索とエスキモーたちの間における生活』の意)を出版する段取りを整えた。この本は、ホールと同じようにフランクリン遠征隊の行方に入れ込んでいたイギリス人の船乗りで作家のウィリアム・パーカー・スノウ(英語版)によって編集された。しかし、その後、パーカー・スノウが手稿の編集に手間取ったことがおもな原因で、二人の間には亀裂が入り、後にパーカー・スノウは、フランクリン遠征隊の捜索に関する自分のアイデアを、ホールが断りなしに使ったと主張することになった。
※この「最初の北極遠征」の解説は、「チャールズ・フランシス・ホール」の解説の一部です。
「最初の北極遠征」を含む「チャールズ・フランシス・ホール」の記事については、「チャールズ・フランシス・ホール」の概要を参照ください。
- 最初の北極遠征のページへのリンク