最初の北極行 1850年-1851年
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「クレメンツ・マーカム」の記事における「最初の北極行 1850年-1851年」の解説
ジョン・フランクリン卿は1845年5月に、HMSエレバスとHMSテラーという2隻の艦船で北西航路を探すためにイングランドを離れた。この船隊はバフィン湾の北部水域で捕鯨船に視認された7月29日が最後の記録になった。流氷に捉えられ、西に向かい続ける機会を待っていた。 行方不明となったこの船隊の捜索は2年後に始まった。マーカムが加わった救援船隊はHMSリゾリュートに乗艦するホレイショ・オースティンが指揮していた。マーカムの乗ったHMSアシスタンスはエラスムス・オマニーが艦長だった。マーカムは遠征隊の中でも最年少であり、唯一のミッドシップマンだったので、限られた役割しかなかったが、その日誌に隊の生活を詳細にわたって丁寧に記していた。艦は1850年5月4日に出港した。 5月28日にグリーンランドの最南端を回り込んだ後、船隊は北に進み、6月25日に北西沿岸のメルビル湾で氷に行方を遮られた。8月18日までそこに閉じ込められていた後、フランクリン隊が進んだことが分かっていた西のランカスター海峡に進むことができた。ここで、失踪した船隊の痕跡を探すために、船隊の船が各方面に分かれた。8月23日、オマニーがケルンを視認し、その近くでフランクリン隊の缶詰肉供給者「ゴルドナー」の名前がある包装材料を発見した。放棄された装置の細々としたものと共に、これらはフランクリン隊の遺物として初めて見つけられたものだった。その数日後、ビーチー島で3つの墓を発見した。それはフランクリン隊の者達のものだとわかり、1846年1月から4月の間に死んでいた。 北極の長い冬に入るまで捜索は続けられた。その後の数か月間で主要な仕事は春の橇を動かすシーズンのための細かい準備だった。乗組員には講義や授業もあり、気晴らしの演劇もあったので、マーカムは「偉大な演劇の才能」を示すことができた。北極の歴史や古典文学など読書も進んだ。またペルーに戻る可能性も考えた。その国はコリングウッドの航海中にマーカムの心を虜にしていた。春が来ると、行方不明のままの隊員の兆候を求めて、一連の橇による遠征旅行が始まった。マーカムはその活動に全期間参加したが、フランクリン隊のそれ以上の痕跡は見つからなかった。それでもまだ地図化されていなかった海岸を数百マイルにわたって地図化することができた。この遠征隊は1851年10月初旬にイングランドに帰還した。 マーカムはイングランドに戻った直後、父に海軍を去るという決断を伝えた。その不満に関する大きな理由の1つは、彼の見解では些細な違反と見られることに対して、常に行われていた体刑が厳しかったことがあった。コリングウッドに乗艦していたときも、乗組員のむち打ちを阻止しようとしてトラブルになっていた。またその任務のうちの長期を占める無為に過ごされる時間にも幻滅するようになっていた。父は息子の要請に対して、多少の悔悟と共に同意した。マーカムは大尉の資格を得るための試験で砲術の部分を受けて合格した後、1851年末に海軍から退役した。
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