最初の包囲と戦闘準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:44 UTC 版)
「サバスデイポイントの戦い」の記事における「最初の包囲と戦闘準備」の解説
1757年3月、ジョージ湖畔のウィリアム・ヘンリー砦はフランス軍に4日間包囲された。しかしフランス軍は、満足な物資や砲兵の支援もなく、さらに、3月21日は周囲もよく見えないほどの吹雪で攻撃ができず、攻略は不可能となり、包囲戦は中止された。しかし、包囲自体は失敗に終わったものの、ジョージ湖岸に停泊していた300隻もの船や、小型の軍艦、製材所や別棟の多くの建物を破壊して行った。 フランス軍の退却により、ジョージ・モンロの指揮下にあるイギリス軍は勝利を主張した。確かにフランス軍は砦こそ奪えなかったが、多くの船を破壊したことで、モンロは、フランスやインディアンの動向を探るための、偵察隊を出動させることが不可能になった。船を失ったこと、人員不足、そして「愚かで規則を守らない」兵たちは砦の外の巡回と偵察とで手一杯で、満足のいく諜報活動を行うことができず、モンロはかなり不安を感じていた。 いっぽうで、フランス軍からの報酬であるブランデー、銃、弾薬、そして衣類にやる気を起こしたインディアンたちは、この年の春から夏にかけて、カリヨン砦(タイコンデロガ砦)から、南にあるウィリアム・ヘンリー砦へ突撃隊として赴き、砦の壁を乗り越えて、刃向かおうとする無謀なイギリス兵たちを拉致し、頭皮をはいだ。モンロは、フランス軍の情報をほしがっていたにもかかわらず、インディアンたちの襲撃に応じることもしなければ、補強部隊が来るまでに、フランスの動向に関する機密情報を得ることも殆どやらなかった。彼はまた、何カ月も前にフランス軍に壊された建物や船の再建にも、急ぐそぶりを見せなかった。6月、ニューヨーク、ニュージャージー、そしてニューハンプシャーの3植民地の民兵が、ダニエル・ウェッブが駐屯するエドワード砦から送られて来て、軍の補強が完成した。フランスの情報がほしくてたまらない上に、軍も補強されたため、モンロは行動を開始することにした。
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